2011年12月5日月曜日

46 Cause You're my Benefits.

前回は、算数は比が大事、比は現実生活で大事とかいう話などをした。

だって比べる力が無いと、一つのことを聞いて一つより多くのことを得られない。つまり損失にはなっても利益にはならない。比べるためにはまず複数の物事を正確に対等に見て、時には深く性質を自分で理解するという賢しげな能力が必要なので、やはり大事だ。

学歴を重視する社会や、誰かに言われたことをしっかりこなすことを重視する社会に対する批判は多いけども、学生である自分は、それらは評価されて然りと考えているのは今書いた通り、今まで書いてきた通りだ。概ねのことはできないよりできた方が全体的な方向性としては良い。

もう一つ、ずっと昔から若者が大々的に嫌い、様々な芸術でも悪として表現される社会のよくある態度がある。
「組織全体の利益を考えれば、個人の生活はどうでもいい。多少の犠牲は已むを得ん。」
「自分の利益を上げるためなら、正しいもの、美しいものから外れても善い。」
私もこの態度を近頃まで狂っていると考えていたが、視野を広げてみると、思想の土台が理解できるようになってきた。同じ人間だもの、同じ気持ちから起こった結果であることは知っていたが、漸く触れられた。

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ということで問題たいむ。例えば以下が「大人の世界」かと思ってる。

問1 有名哲学者のサンデル教授にこんな感じの問いがあるでしょ。

「線路の上に5人の作業員がいる。このままでは列車に轢かれてしまう。あなたは線路の切り替えポイントにいる。列車の進路を替えれば、5人は助かるが、切り替えた路線の先にいる1人はやはり死んでしまう。あなたならどうする?」

捨象すればこうだ。「ほっとけばマヌケな5人が死ぬところを、あなたの手で関係無い1人を殺せば助けてあげられるけどどうする?」…という言い方をすれば偏るかもな。

問2「ほっとけばマヌケな1人が死ぬところを、あなたの手で関係無い5人を殺せば助けてあげられるけどどうする?」これなら迷わず一人を轢き殺す?

問3「あなたの親しい友を殺すか、嫌いな人を殺すかだったらどっちを選ぶ?」
違いは私情だけ。ランダムなんてナシ。

問4「人殺すのとゴキブリ殺すのどっちが悪い?」
一般論として説明できるかな。

問5「日本が沈没するのとあなたが眼に毛虫入れられるのどっちが良い?」
良くないわ。


こういう問いに論理的に答えるには、その人個人の世界観や価値観の影響を強く受けた思想が必要になると思う。

ここで自分が言いたいのは、恐らく人間であれば誰しもが、より多くの利益とより少ない損害を得るために生きるだろうというよくある仮定だ。逆に言えば、人間は誰でも、自分がしたいことしかすることができない。いわゆる功利主義、もしくは利己主義とも言えそうだ。1人よりは5人を、それもできるだけ多くの親しい人を残そうと選択した人、でも自分が我慢して世界が救われるならその方がいいと思った人は典型的だと思う。

利益と聞いて金銭のことしか考えないのは中学生まで。利益とは、財産、権力、時間、快楽、信頼、人情、感動、幸福など人によって異なる。何を利益と見るか、これが高校現代文で死ぬほど使われる「価値観」というものだ。一般に「利益=幸福」と言って大した問題は無い。

人は自分の利益と思うようにしか動けない。金銭への欲望を理性的に我慢して他人のために尽くしたいと思うのは自分の欲望。リスク同士を天秤にかけた結果、最善の選択肢として自殺を選ぶのも自分の意思。人間が自分のことしか考えてない汚い生き物だと言ってるんだと思ったら誤解だ。ただ基本的な理論を仮定しているだけで、その他の現象はその上で充分あり得る。



こういう選択、いわゆるジレンマに迫られる毎日を過ごしている人は多い。どちらを取っても必ずリスクを負う、もしくは必ずリスクを負う可能性があるが、必ずどれかを選択しなければならない。なぜなら、危険を冒してでも利益を得たいから…という場合もあるが、ここでは、無数のリスクの中でも最も少ないリスクを取るためと言った方が適切だ。

上に挙げた極端な例の通りではなく、普通一つの物事には利益と損失が混じり合っている。百害あって一利無しと言われる喫煙も、吸うことで運動や気分転換になって精神が落ち着くこともあれば、喫煙所での談笑から良いアイデアが浮かぶかも知れない。行動するにはリスクが付いて回る、そして利益も付いて回る。私達は、それを単純に足し算して利益もしくは損失と考えることが多い。特に時間やお金など、計量可能なものに価値を見ている人にとっては迷いが少なかろう。それが営利団体だ。

これが「多少の犠牲は已むを得ん」と言ってのけられる理由じゃないだろうか。行動するにはどう頑張ってもリスクは起こる。絶対に大丈夫なんてどうしても保証できないのが社会通念。損失を全く出さずに利益を上げるのが難しいなら、損失を出すかわりに上げた利益の方が大きければ結果的にプラスになっているのでそれで良い、と考えるのが普通だ。さしあたり一概に悪いことのようには思われない。


ちなみに子どもの頃は上に挙げたようなマイナスだらけの問題にはそうそう当たらない。試しに考えてみたことはあったが、思い巡らせた末、こんな選択自体が間違っているので、こういう状況にならないようによくよく世界を構築する必要がある、と結論付けてスッキリしていた。与えられた条件、つまり世界を改変するのが子どもの秀でた能力なのでこれはこれで一つの解答だとは思うが、純粋に学問を追究したい私達としては不満だし、何よりこの規模では無いにせよリスク同士の選択は日常的に蔓延している。

リスク同士の選択は、自分一人で生活するだけ、何の責任も負ってないのであれば、子どもと同様にそうそう出会うものではない。何か不明瞭なことに対して積極的に働きかけるときになると急激に増える。限りある時間の中で、まだ起こっていない危険を予防して、未来や他人を生活させようと思うことがあれば、とにかく考えるより行動を起こさないといけないので、この選択が莫大に増える。ゆっくり準備を完全なものにしようとしたらそれだけで一生が終わってしまう。
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きゅうけい
且(*´ω`*)且
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さて、不確定な利益と損失を計算し、少しでも良い人生を生きる方法として、確率論がある。

問6「100万円もらえる確率が100%、1000万円もらえる確率が1%。どっち選ぶ?」

この場合、100万円を選ぶ人の方が多い。たぶん。これは簡単な考え方にある程度則っていて、正に義務教育で教わる比較的新しい数学の分野に関係する。
「前者は利益の期待値が100万円で、後者の期待値は10万円なので、前者の方が差額の90万円の得になる。」これだ。

もちろん1000万円もらえる可能性もあるわけだから、絶対に100万円の方が得とは言えない。ただ、よほど余裕が無い限りは堅実に前者をもらっといた方が無難だ。冒険して失敗すれば周りから何を言われるか分からない。そういうことだ。

簡単な例えにして話したけど、この考え方が日常生活や仕事での選択に大変使いやすい。

試してみた場合に、どれだけの確率で成功しそうか、成功した場合はどれほどの利益が出そうか、これをかけ合わせれば期待値だ。他の選択肢の期待値と比べて参考にすると冷静に判断できる。無理矢理数値化しなくても図形的、人間的、感情的に考えたっていい。私個人は、何でも数値化することで仕事が効率的にかつ楽しくなった。

実際にはもっと複雑で、例えば。100%の成功する確率が20%で、70%以上の成功が50%、35%以上が80%。50%以上の成功をした場合にはもう一人追加で稼働できるけどその人の能率は自分の50%で時給は80%、特に3%の確率で平均の500%までの買い物をする客が来た場合には自分ですら75%の対応しかできない。損失は最大でもどのくらいにしたいから結局この仕事を自分がやるべきなのかどうか?とか考えないといけない。

大げさなようでそうでもない。実際には確率の数字はおおよそのもので、計算も感覚的にやる。だから小学生かその前に計算力や物を見る力が大事なんだ。少しわかりやすいこと言えば、そもそもどれがどれくらいの確率でどうなるか、ということを判断するのは、経験によるところも大きい。そもそも確率と経験とは強い関係が在る。ありとあらゆる細かいところから情報を持ってきて確率を定めるのもやはり日頃の注意が重要になる。

名探偵とかになったつもりで観察眼や記憶力を少し飛ばしてみると、意外に使える機会は多い。もちろん上手に使うためにも常に意識していないといけないのだけど、基本的には他人に対する気配りと同じだ。他人が困っていないか、何かを必要としていないか常に気を配れる人なら仕事への応用は簡単だろう。ただし、良い人付き合い、良い仕事というのは際限が無い。何事も一筋縄ではいかない。

そして、経験を積んだ人ほど、そして細かいものを見過ごさない人ほど、確率を基本的な考え方とする傾向が強い。なぜなら最も合理的で、もっとも素直で、最も安全な判断の方法だから。確率に頼ること自体、細かいもの、不確かなものから大きな流れの方向性を読む行為に似ているのでなおさらだ。

その上で。確率を計算するのは複雑になればなるほど頭を使う。その上で、結局のところ確率でしかないので、つまり賭けをする。自分がいかに頭が良いか試す場であり、後は読み切れなかった現実がどう動くかを鑑賞する場でもある。賭けた額に対していくらの見返りがあるか、それがつまり自分の読みの正確さをそのまま表すので緊張すると同時に楽しみである。のではないでしょうか。


日常生活やお仕事ってのは、ゲームの枠に当てはまるところがむちゃくちゃ多い。沢山のゲームをやってる人は人生のモデルも豊富だ。経済の流れを読むのなんかよくできたゲーム。人生はギャンブルだ、とかいう言葉もあるけど、ただ生きてるだけで常に損失の可能性があるのと同様に、常に利益の可能性もある。ただし、当然いつ何時でもチャンスをつかめるように準備すること、チャンスに逢いやすい環境を作ることは意識的に可能だし重要だ。自分で人生変えるっつっても大げさなものから小さいこともある。小さいことが積み重なって大きなことに成ることもよくあるし、むしろならない方が稀。

別に意識しなくてもいいけど、でもやってることはギャンブルと同じ。勝てそうな流れ時にその自信に見合ったお金を賭けて、うまく読めた場合は大きな報酬をもらう。不測の事態や極端に不運な場合は賭けただけのリスクを負う。ただ、自分が賭けたよりも莫大に儲かることはあっても、賭けた額より多く損することは起こらない。ほら、勝てそうな時は勝負した方が間違い無く得できる。長い目で見た場合にはね★☆★

2011年10月24日月曜日

45 1リットルの塩水が支える相対性社会

2011年12月4日(日)快晴と強風

世の中は就活も熱い時期ですね。
今日はSPI対策の本読んでてこんな問題が出てきた件。著作権拝借します。

「4%と9%の食塩水を混ぜて8%の食塩水を1000g作りたい。4%の食塩水は何g必要ですか。」

はい考えて。

●模範解答の引用↓

   4x+9y=8000…I ←(濃度% × 食塩水g)の式。
   x+y=1000…II
   これを解いて、x=200

なるほど、文字を二つ置いて、二次方程式を立てるわけですね。中学生の数学を学んだ人なら誰でも解ける。

●僕の解法↓   伝わらないと意味無いので冗長に説明する。

   実はこれ、素直な人なら感覚的に気づくと思うけども、4%と9%を一定の割合で混ぜれば、1000gとか重さに関係無く8%になるお。その割合は、素直な人なら考えれば分かる。あるいは考えなくても分かる。
   例えば、もしこれが20%と40%混ぜて30%にするなら1:1じゃん。0%の水道水で10%のアルコールを2%に薄めるなら5:1だ。つまり逆比を使えばよろしいってこと。簡単。

この問題を考えてる過程で、頭の中にこんな図がふわふわ浮かんできた。
はい天秤の図。作った。
   日本中の人が「てこの原理」とか言って慣れ親しんでるその原理をちょこっと応用すれば小学生の天秤の問題は全て簡単に解けるわけだけど、それがどうして食塩水の問題に使えるのか、素直ならすぐわかる。
   支点から近くにかかる力は作用が小さく、支点から遠くにかかる力は作用が大きい。この図で言えば、8%という釣り合いが取れる点に対して、4%も離れた4%食塩水の方が少量混ぜるだけで濃度に大きな影響を与える。ただ4%という隔たりを大きな存在にしているのは対になる1%の隔たりで、つまり比率がモノを言っている。1000gという重力を支えさせるように食塩の重さを割り振るのは、距離の4:1の逆比、1:4だ。4%の食塩水は1000gの5分の1必要になる。

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こんなに冗長な話はここまでだ。今のは導入だから。

上の二つの解法で、僕が好きなのはもちろん後者だ。

   自分は代数があまり好きじゃない。奇抜な発想と高度な計算で複数の事象を暴く技術としては非常に興味深いし尊敬するけども、あまりにも概念的でついていけない。何より忌み嫌うのは、意味も解らず数字を作成して暗記した通りに変形しては数理を分かった気になっている人が8割くらいいることだ。優れた数学者は、数学よりもむしろ物理学を好むことすら多い。
   上の問題は、数学を持ち出すまでもないほど身近で現実的な問いだと思う。そして、SPIを通して企業が把握したいのもそういう実務的な能力の有無だろうと思う。少なくとも自分は、目に見えて仕事の役に立たせるほどに空論を操作する技術は稀有かと思う。
加えて、わざわざ文字を立てるまでもなく全体が容易に理解できるように図式化できて、模範よりも速い。

   ちなみに、その「てこの原理」は、このSPIの本の単元である、てこ、天秤、滑車、食塩水、鶴亀算、仕事算、ニュートン算とやらにも応用できた。なかなか面白いからそれぞれまとめてみたいくらいだ。


さて、
SPIを通して社会が望む能力とは何か、人間が基本的な物事を成すために重要な能力って何かって意見を述べたいためにこの話を持ち出したわけだ。

暗記して意味も解らず同じ事を繰り返す能力よりも、自分で全体をよく見て問題点を発見して、柔軟に明解に速く解決する能力だと言いたい。

そして、それは算数をするときにも今見たほどには役に立つ。むしろ必要とするくらいだ。

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私が小学生のとき、「算数はとにかく比が命だ」と先生がよく言ってたのを憶えてる。自分も同感だったし、今も概ね同感だ。

てこの問題にしろ、文字や状況を図に表す力にしろ、一つの図式を他の分野に利用する力にしろ、私の思想にしろ、比べてばかりだ。どれも比べる力が無ければ成り立たないし、比べるものが無くても成り立たない。

そもそも物理や水溶液の問題が算数の問題として出されているんだから、算数と理科を比べる例は分かりやすい。論理の実際の場である言語を整理して理解するにも比べる力は使うし、現実社会を抽象化、図式して理解する際にもやはり比べる力は便利だ。算数に限らずいろいろ得するのではないかと思う。

この話は何度もしてるけど、一つが二つにも三つにも役に立つと思えれば、もちろん実際に役に立たせれば、利益は大きい。一を聞いて一までしか分からないと信じてアンテナを休ませれば、大体そのようになる。算数とSPI、SPIと就職がなぜ関係しているのか、分からないよりも分かる方が好ましいに違いない。

補足だけど、そもそも、世の中は比較でしかないという考えは仏教や現代の哲学にも頻繁に言われている思想の一つで、そこまで大げさではないにしろ、自分も世の中縮尺が重要だと考えている。例えば、ある図形の任意の箇所の縮尺を任意に変えれば、任意の輪郭を持った図形に変形できるように、いくら元が同じものでも、様々な視点からの尺度、比率がバラバラに変われば、全体として見えるものは全く別のものになってしまう。つまり、人の認識は全体的なバランスを見る力によって大きく異なるということだろうと思う。

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もう一つ、全体を見て正しく割合を見れるようになると、確率だとか潮流だとか雰囲気だとか、なんとも言い難い機微を感じられるようになる。会話、スポーツ、芸術の中で、何となく情勢が分かって、さじ加減を調節できる。このへんは表立たない作用。

個人的に興味深いテーマなんだけど、いわゆる「運」や「偶然」というものは、まったく人知を超越した神秘的な何かと考える人もいれば、天文学的に膨大でカオスな事象の組み合わせでやはり人知を超越してると考える人もいれば、何の理由も無いと考える人もいるだろうけど、自分は、それらのどの考えも捨ててはないけど、一つには、そういう算数的な感覚や、数学的な関数でわりとたやすく解釈できる、そして操作できるものも多くあるだろうという考えを強く持っている。これも概ね前から言ってる通り。





・・・もう一つ話したいテーマがあったんだけどまた長いんで次回に回す。
あれかな、よくある経済とかゲームとか哲学の話になるかな★☆★

      

44 少年-OIYASUSHI-

2011年10月24日(月)うらめ

夏ごろから繁く思うことがござる。主に職務、業務、教育について。
就職の知識と意欲など吹かずに飛ぶ程しか無い私が論じるのだから戯言と言って然れよ。

「こいつら仕事できねーな」自分の仕事中のみならず、他のお店とか企業に赴いてもほぼ確実に思う。例えば…

   ・言われたこと、書いてあることがその通りにできない。
   ・分からないときに訊かないで勝手にやっとく。
   ・発言が聞き取れない、間違ってる、回りくどい等で伝わらない。
   ・一つの仕事を分割払いしたり、期日が早いものを後回しにしたりと、効率が悪い。
   ・遅い。急がない。
   ・空気読まない。状況の把握しない。
   ・元気無い。楽しくない。表情がウザい。

なんでそれで仕事できねーって言うかって、こういう考えがある。

   ・つまり上の項目ってのは効率悪い。俗っぽく言えばつまり頭悪い。同じ時間でできる仕事量が違うわけだ。教育しにくければ時間がかかる。声が聞こえなければ時間がかかる。また、楽しくなければ能率が落ちるという思想を当然と思えるかどうかに若輩の私は思想の深みと広がりを感じる。以前いろいろ書いている通り、繋がりを見る広い目に関わる。
   ・大体の原因はコミュ障だ。就職において、コミュニケーション能力が最重要視されると聞く。これは同感だ。英語しか喋れない人と仕事はしたくない。共感する能力が無ければ理念の下にある仕事を共にするのは難しい。まずは考え方、つまり根本から合わないといかんし、仕事はまずは他人の為。これ当たり前分かってない人約8割。

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   そして、小学生の算数を繁く教える中で「この考え方ができないと仕事できない大人になる」という繋がりが分かってきた。これはかなりはっきりしたことだと思える。例えば…

   ・文章に書いてあることを理解しない。何がどうなっているか想像しない。
   ・ちょっとの間でも記憶していられない。どれがどれか注意して憶えてない。
   ・正確に写し取らない。自分で書いた数字すら汚くて読み間違える。
   ・計算の意味を考えずに、どの問題にはどの解法、と暗記している。
   ・自分で考えないですぐ他人の力に頼る。その場が良ければいい。


   そもそも小学校の勉強なんか役に立たんと思う?そもそも学業が役に立たんと思う?国をあげて教育に力を入れる意味が分からない?それはまた広い目が無いと言えば済む。
   例えば紙を印刷して半分に折る作業を二人でやる場合、これを分担しないで、印刷を二人でやってその後で半分折りを二人でやると、道具や場所が足りなくて待ち時間が出るし、二人ともが二つの仕事を覚える必要があるし、せっかく覚えてきたところで半分しか無いから遅いまま終わるし、終わった後二人とも一気に仕事が無くなって無駄な時間になるし…。
   こんな単純な仕事でもいくらでも可能性や方法がある。この程度言われれば変だと分かるだろうけど、実生活ではこういうこと約7割の人がやってる。約9割の人がとっさに良い方法を考えつかない。そして大事なのは、これらの仕事を上手に行うことは小学生の算数の問題が数値化されているか否かの違いだけで、何も変わり無いということ。


改めて、どういう考え方ができないとどういう大人になると考えているか、例えると…

   ・理解しない、想像しない   →   まずしっかり話聴かない。で、自分で仕事できる道筋を想像しないから進み出す方向が分からないし、事前に問題点に気付けないから何度も訊きにいくことになる。当然、自分で企画をしても問題点だらけ。って大人になりそう。

   ・記憶しない、注意しない   →   目の前のものにとらわれ過ぎ。あっちをするとこっちが抜ける。違うものを混同する。何に何の意味があるのか理解してない。使えるものも捨てる。

   ・正確に書き写さない   →   やっぱ正確さに欠ける。めんどくさがりだったり、自分が正しいと思ってるところが強くて、勝手なことする。しかも間違いを認めない。

   ・すぐ暗記、すぐ他力   →   いろいろ表面的に考えてる。応用力無し。もしくはやる気無し。ただしこういう人は、大人になるにつれて笑顔と挨拶だけは良くなるパターンが多い

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   …と、考えているとき、折しもお古のSPI対策の本を勧められて見てみたところ、実に小学生の算数の問題ばかりじゃん。しかもよく見たら、問題分に書かれていることを図に描き直してみれば答えは一目瞭然であるというのに、わざわざ連立方程式を立てては数字を操作するだけの意味の無い解法を「時間をかけない解き方」として手順を暗記させようとしていて、SPIの意図とは不適合ではないかと思える書物だったのは伏線的余談。

   雇用側がこれを求めてるってことは、つまりこの能力が仕事の役に立つってことだよね?履歴書の大学も見るけど、小学生の問題解けるかも改めて問う。そして、それができない人がけっこう多いからこそ実施するんだろうと思います。


   10年前くらいに【九九のできない大学生】なんてニュースになったじゃん。私は子ども心に「あんなのメディアの誇張か、本当だとしても勉強なんか全然したことないような人つかまえて言ってんのか、そうじゃなくても日常で算数なんか使わなきゃ忘れもするだろ、だってお母さんもできないし!」と思ってる時期がありました。しかし未だに九九のことが一日でも頭を離れたことが無いのはそうなんだけど、今になって目からウロコが落ちたのは、全国的に有名で就職に強いと言われる大学で専門に数字を扱う大学生ですら、三角形の面積の出し方や小数点の計算やらを次々に間違えまくり、それが一人や二人じゃないことだ。ちなみに目からウロコという言葉は初めて使ったかも知れない。あぁ、今気づいたけど彼らは正にゆとり世代なのか。

   就職大変な時期が続いてるし、何だかんだ言って小学生の頃から仕事したくないなーっていう不安をずーっと持ち続けて成長してきたのが平成の若者だと思うんだけど、周りの現状を見てみて、なるほどこれなら自分が社長(笑)だとしてもどれも雇用しない。こういう人が真っ先に落ちるんだと、半ば安心して相変わらず勉強をサボっている。

   こんなに上から目線なのは、一般常識は無いけど考えることだけは質量をこなしてきて、罵倒されても評価されることは僅少だったので、ちょっと驕っておきたいから。大学受験の時のようには振り回されないで自信を持っていたい。

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      しかし一番言いたいことは子どものこと。

保護者は勇気を持って、子どもたちに、ぜひ早めに、しっかりした教育をしてあげてほしいということだ。   先行きの暗い現在、子どもに可哀想な未来を迎えさせないための保護者の義務と考えてもいい。


   最近子どもブーム同様に教育ブームを感じてるので少し安らかではあるのだけど、今は住んでいる地域などによって教育の格差がものすごく激しくなってるので、全然包括的ではない。
   算数じゃなくてもいいんで、どちらが福利になるのかよく検討されたい。

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…まぁあくまで上に書いた能力は業務を行う上の最低限の基本であって、そこから上がむちゃんこ大変だと思ってるんだけどね。

また近いうちに算数がどう役に立つのかとか、算数さんについて秘めたる想いを少しばかり書こうと思う★☆★

        

2011年10月5日水曜日

43 やらせたい放題やり放題

トイザらス行って一周見てきた。あんなハイカラなとこ一回くらいしか行ったこと無かったんで、もののついでに。不思議なおもちゃがいっぱいあって驚いた。

大人は普通ホイホイ与えない。クリスマスか誕生日のときだけと約束してしまい、ダダをこねるか祖父母に連れてもらうかしないと手に入らなくて友達を羨むとかよくあるパターンだけども、実際は全然大人の手が届かない値段ではなくて、一万円もするものは稀。親もいろいろ考えているのか、あるいは気分的に嫌みたいだ。

店内にいた複数の幼児を見ると、純粋でかわいいなんて子は稀だった。いつも大きなお店に行くとそう思う。なぜだろうなぜかしらと考え始めた。

もし子どもが頻繁に玩具を与えられたら…? 四半期に二個以上ってとこだろうか。

一つ。
   幾分受動的になりそう。欲しい物が降ってくれば自分で想像力を働かせなくなるというのもありそうだけど、もう一つ、ある遊ばれる目的を持ったおもちゃを扱うことで、それに合わせた遊び方をするようになりそう。ついでに言えばそれが限定的であればあるほど、一対一の正解を求める傾向が付きそう。
   受動的で相手に合わせる分、自分より外の世界が何を求めているのか、何を考えているのか、何をどう感じているのか、どういう仕組みで動いているのか、あるいはそれをどう扱えば適当なのかということについて敏感になりそうだ。それでいて、主体的で自己中心的に活動の場を広げる子どもが自分の感性との関わりで世界を知るのに比べて、客観的な判断をしそう。
   遊ぶ道具が断続的に与えられることで、暇を持て余して何もしないというようなことにはならず、活動的かつ主体的になることも考えられるが、その場合も、あくまで対象物があることで主体性を獲得するのであって、本当の意味では受動性を抜けきれず、自分の根本的な気持ちを観察することをせずに、外の世界に自分を見出しそう。
   逆に言えば、遊び道具に乏しくて余暇を持つ子は、古代ギリシア市民に哲学が誕生したように、自分の気持ちの観照やその表現に長けそう。

二つ。
   おもちゃが手に入らない子どもが夢を見るのに対して、実際に遊び終わった子どもは夢が過大評価であったことを知ることが多い。あまり決定的ではないように思うけども、世界を現実的な大きさで見て、結果的に他の子どもよりも小さく見る子どもたちは、ませた感じになる傾向がありそう。既知の物は勿論だし、さっき言ったように理解が速いから初見の事物を現実大で見るのも速そう。パズルなどの思考力を使うものでなければ、結果的に創造的よりは現実的になるかなぁと。
   ただ、現実大で見るということは、他の人が目もくれない場所も正しく見るということで、一概に他の人よりも小さく評価するとも言えないし、未知のものについてまで過小評価する傾向があると予想するのも性急であるように思う。そのへんは何日か考えたけどよく分からんので保留。

さて。

   玩具についてその辺まで店内で考えて、最近よく耳にするが耳慣れない子どもの名前に思い至り、一つ面白い仮説を立ててみた。まるでおもちゃの商品名やアニメのキャラクターのような名前を掲げる子どもたちは、もしかすると上述したような傾向を持つ子どもに成長するのではないか、と。こんなロマンチックな名前だけど、現実にしてみればこんなもの、と思うのではないかしら。注目。


蛇足ながら僕については、人生の最古の記憶の候補の一つが、「スーパーマリオワールド」を一人でやっている自分が普通の子どもと比べて変なのではないかと疑うというものであるほど幼い頃からテレビゲームをやっていて、親よりゲームが好きだったし、親よりゲームに教わることが多かった。根っから受動的であるように思う。あまり活動的ではないように思う★☆★

   

2011年9月28日水曜日

42 映画「実写版忍たま乱太郎」観てきた

映画館で映画観るのはまだ10回未満だろうと思う。自発的に観にいくのは初めて。
子どもに対する愛と、以前書いた外に出ることへの興味と、金銭的な余裕によって至った。

地元の映画館だったんだけど、観客は約10名で約半数が5歳前後で女子が多めだった。
馴染みの無い自分としては、劇場内に飲食物の持ち込みが許可されるのが新鮮だった。
他の映画の宣伝が長々と入る。どれも観たくなる。二千円で一本なら今なら観てもいい。 

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急に本編が始まる。以下みだりに感想。全体的にトレンドを掬ったという印象だった。

配役について、加藤清史郎くんは役にハマってなくても主人公だからまぁいいとして、乱太郎の両親役の中村獅童と檀れいがあまりにもハマってなくて誰だか分からなかった。他は許容範囲。声変わりしてるキャラとしてないキャラは分けてほしかった。次屋三之助がグッドだった。

ストーリーは、ほとんど原作、アニメのまんまで、斉藤家の抜け忍の話がメイン。考えてみると忍たまは歳とらないマンガだから、18年経っても入学して数ヶ月後の話なんだと思うと違和感があり過ぎた。それ考えると、子役がメインのこの実写版はもう撮れないな。

とにかくキャラが多い。は組は全員委員会や性格の説明が入るのに、別にストーリーに絡んでこない。基本的に知ってる人には分かり、知らない人には分からない。は組ですら台詞の殆ど無い人も多いし、い組ろ組他関係無い人達は登場しないのが寂しい。台詞無しで出演する人がいるのに最初から不自然に省かれる役があるのも違和感。

お笑いの要素がかなり盛り込まれてた。特に汚物と暴力ネタ。実写だと大怪我しそうなゲンコツやズッコケだったり、山本シナ先生が屁をこきまくる汚いババアという設定だったりと、いろいろ冷や冷やするところが多かった。

音楽はアニメと全然リンクしてなかったので世界観がやや離れていたように思う。EDとしてアニメOPの「勇気100%」が流れたまでで、オリジナルの和風らしき音楽が多かった。個人的にはアニメと結ぶのは効果的だと思うんだが。

演技はなかなかショボーンな感じだった。アニメを理解してないと思しきものが大半だけども、アニメと比較しなくてもあははーな感じが多かった。まぁあのアニメは完璧なキャラクターをして切り替えが必要なNHK的作品だからとっても難しいとは思うけども。まぁほとんどは子どもだしな。

個人的に面白かったの、まず最初清史郎くんが出てきて山や戦地を駆け巡るところ。ひとつの作品として収まっている美しい姿に最初から涙ぐんでた。この作品ではとにかく走る走る。石段を必死に上ったり、敵忍者の脚にしがみついたりして本気で頑張ってるシーンはホントに泣いた。
   しんベエ役の木村風太くんが最初の顔からいい演技で、むっちゃかわいかった。どうしてしんベエ役が小5で一番デカいんだと思ってたけど、これはしょうがない。とにかくずっとしんベエばかり追いかけてた。
   夏休みで忍たまが里帰りするシーンで、大勢の男子子役が着物を来て歩いてるのも感動した。
   背景の小ネタも。よくある感じだけどちょっと意味不明だった。速過ぎて見きれないし。
   それから照星さんの顔。緊迫と感動のシーンでずっと笑いを堪えられなかった。
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私の感想はそんなもんなんだけど、どうも子どもたちの方はもっと別の所が面白かったようで、不思議に思いながら鑑賞していた。どうやら子どもが笑うのは、言葉でのネタではなくて、動きがあるものだ。つまりまずは彼らに認識できるもので、かつ自分の範疇として認識できるものの中で異様なものが滑稽に映るらしい。ただ凄いアクションをこなしても、何が何だか分からなければダメ。簡単に言えば、彼らの認識レベルに合わせるということ。その結果、こちらが思うような言語的な意味合いは無視されることが多いということだと思う。もっと簡単に言えば、ズッコケや背景破りなどの形式的なものが面白いらしい。

劇場から去る親子の会話はしけたものだったので、この映画はそういう需要なんだろう。

ところで映画独特のタッチ、群衆の動き、変な間、もごもごした声は何なんすかね。


映画の臨場感とかは別に要らないけど、パンフとかグッズのために行く価値があると気づいたのが一番大きな報酬だった。いい夏の思い出になった★☆★


2011年9月9日金曜日

41 マルモリダンス注意点まとめ。

薫と友樹、たまにムック。「マル・マル・モリ・モリ!」薫と友樹の振り付き映像(スペシャル・バージョン)買った。

映像のツギハギと、後半の二人の緊張した動きと表情、画面外部の何かを見つめる視線にびっくりした。

以下、福くんと愛奈ちゃん二人の動きの限りで個人的な印象と踊るときの注意点まとめ。
ブックレットにはテレビのEDサイズの解説が載ってたのでそれを参照。
左右の表記は実際の左右に合わせる。

●基本的に右から先。右が上。
●笑顔が基本。音楽に合わせてればおk。
●首の傾きと顔の向きで純粋さが大きく変わる。体に合わせてればおk。
●動きが無いと寒いので、体でリズム取ると概ね良い。
●福くんは腰で遅め、愛奈ちゃんは膝と首で早めの動きが多い。一長一短。

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マル・マル・モリ・モリ!

(イントロ);福くんが右、愛奈ちゃんが左。背中合わせ、右脚を前、右足を立てて、右手を上にして軽く丸めておく。

マルマルモリモリ;右手が上。まるく。
みんな食べるよ;手は顔の真ん前で上を向ける。
ツル・ツル・テカ・テカ;床がツルツルのイメージらしい。テカテカは手を前向きに回転。
明日も晴れるかな;2拍目で右手上で合わせる。首傾けるのに特に勢いは無い。

ダバデュア;かかと、つま先の順で移動。腕は左、体は右に。上下は3拍目に八分で。
ダバジャバ腕は再び左、体は左に戻る。上下はたぶん3拍目八分。
〜ダバデュア;これは流れで左から。左脚から踏む。腕の前後は3拍目八分。福くんだけ3拍目で思い出したようにこちらを向く。おしりも同時に出す指示があるけど動いてない。
ダバジャバ デュア;右脚から踏む。つまり進行方向の脚、奥になる脚を踏む。最後は3拍目裏から腕動かす。つまり歌詞に合わせればおk。

大きくなったらお空に声がとどくかな;3拍目で手も脚も揃える、4拍目で膝曲げる。首も傾けて一体感。最後の小節で横を向くとキレる。最後は地を見ておk。
いつまででも一緒だよ!;体でリズム取ると無邪気。福くんが先に上から叩く指定。

〜繰り返し)晴れるかな;右に。最後の腕の上下は3拍目裏から

悲しくて泣いていた;左に踏み込んで戻る。右手上。おしりは右から指定。俯いて泣く。
一人歩く帰り道;右脚から右、後ろ、左、前で右回り。
こんな時ホンワカな;右から。体は真っ直ぐのがバランス良いかも知れない。
みんなに会いたいなぁ…;右から。首は腕に合わせないともったりするかバラバラする。4回目で静止、左脚を前から回して右回転。

〜繰り返し)おまじないだよ;右手が上指定。
〜ニッコリ笑顔;福くんは腰からで指はやや前からで顔をアピール、愛奈ちゃんは首だけだけど指が横からで大きく見える。どちらも捨てがたい可愛さ(画像)

いちにのさんしでゴマ塩さん;指は1,2,3まで。
たくさんだとおいしいね;右に向かって左に戻る。かなり横向く。視線は手元でおk。戻るときはおいしい顔指定。体でリズム取る。
〜プカ・プカ・オフロ;浮かんでるイメージらしい。
〜ゴシ・ゴシ・ブラシ;前傾。腕の伸縮がはっきり見えるとブラシ。真ん中は両足つく。
みなさんグッナイまた明日;首も。最後腕から振ると説得力がある。
朝ごはんはなんでしょね?;顔も。4拍目は休止。

繰り返し;繰り返し。

〜指切りしてテレリンコ;1、2拍で指合わせる、3で結ぶ。右脚から回転。笑顔でこっち。
〜手をつないで願いごと;1、2拍で手つないでる。反対の手も振ると全体性ある。

〜テク・テク・トコ・トコ前に進むよ;福くん右脚から、愛奈ちゃん左脚からになってる。
いちにのさんしでホームラン;ホームランっぽいスイングの方がかっこいい。主に脚。
愛がいっぱいランドセル;膝曲げて回転する方がそれっぽい。3拍目で左脚揃え。ランドセルは重心上で。
〜大きくなるよ;福くん右左。愛奈ちゃん上下。左右対称ですらない。
ドキ・ドキ・ワク・ワク ドアを開けるよ;右脚から。顔は動かないで手は横の方が見やすい。福左手、愛奈右手が上になってる。
もっとステキな日になる;3拍目で手を添え、2小節目で振る。まぁこのへんかなり適当だよね。

大好きだよ!!!;この後、最後の腕の前後は3拍目裏からを二回。リズムに合わせればおk。

〜繰り返し)いつもいつもありがとう!;2拍でやってる。脚揃えてる。

ダバデュア ダバジャバ;愛奈ちゃん腕反対。
デュビデュバここだけ腕の上下は3、4拍目。歌詞に合わせればおk。
ダバデュア ダバジャバ デュア;最後3拍目裏で手と右脚出す。4拍目で右脚を左脚の前にして考えるポーズ指定。愛奈ちゃんは爪先立ち。

よく出来ました!;棒読みで。

おわり
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いささか商業臭いし、要するにほのぼのすればいいので統一感は低くても問題ないんだろうとは思う。けど自分が踊るとなると気になったので調べてみたまで★☆★


2011年8月4日木曜日

40 「IMERUAT」日本初ライブレポート

私の最も愛する音楽家である、元スクウェア・エニックスのコンポーザー、浜渦正志氏が昨年「AINU REBELS」の女性ボーカルMinaと結成したユニット「IMERUAT」の日本での初めてのライブが、2011年7月31日(日)に東京の二子玉川のライブハウス「KIWA」で開催された。

浜渦氏はFFXIIIのサウンドを作り終えてフリーランスに転身してからも、ゲームを中心に楽曲提供を続け、FFXIIIのピアノコンサート、FFのコンサート「Distant World」、任天堂ゲームのコンサート、パリでの初めてのIMERUATのライブなどなど、表に外に出る機会が増えていて、ファンには嬉しい限り。

IMERUATのメンバーは二人とも日本人なのにパリが初ライブとはいかがと思ったけども、出生地はミュンヘンと北海道のアイヌ地方という型の破り方だし言うことは無い。基本的に準備してくれれば来てくれるらしいからIMERUATのファンでコンサートライブに詳しい人は定期的にお願いします。

以下レポート。うろ覚えなんでいろいろ順序とか違うかも知れないんでなんかあったら教えて下さい。

   ●開場。ホール、ロビー●   
18時開場の自由席なんで前列から埋まっていくんだが、後ろを陣取る人が多いのも浜渦ファンの性かも知らん。私は前列の左側、つまり浜渦氏が座るPCとピアノの間あたりを取りました。が、「後から来るお客様がいらっしゃるので左席が一つ空いている場合は大変恐縮ですがお詰めくださいっ」的なこと言われて2つ詰めたら浜渦さんの顔すら見えにくくなったけど後から誰も来なかったよね。以前のライブにも独りで来てたっぽい女性がすげー嫌そうなアピールしてたけどあの顔は無かった。

19時開演なんでしばらく時間があるんだが、僕は大人気無くひたすらあたりをキョロキョロ見回してたんで、特に浜渦さんのファンには気になった方が多かったと思うけど、やっぱり客層というものが気になったし、前回のピアノコンサートが80名だったのに対して今回も200名程度で浜渦さんもアットホームにやろうと言ってたので、また濃いファンであるなら信頼できるデータになろうと思って。と見てみると、前に見た顔がけっこうある。4年前くらいの握手会のときの顔もある。やはり外国人もいる。本読んでるぜ。若い男性陣が前列を独占しておる。やはり前が若年、後方が大人、曖昧に軽い人が散って、端に重しがいる感じだった。

地下なんで狭いけどホールの外では物販。女性っぽい男声っぽい人と明らかに外国人っぽい男性が売り子。買い占めると悪いからCDは2枚でステッカーは3枚までしか買わなかった。ステッカーは一個100円だし終わる頃には完売してた。CDどんな曲入ってんかと思ったらすでに配信されてる3曲だけだったわ。でも一応限定だって言ってたのでうまうま。でバーで本日のカクテル的なヴァンパイアブラッド(゚д゚)ウマーした。お客さんの気分に合わせて適当に作ってくれたりもするらしい。

   ●開演〜三曲目●   
なんかブルースともなんとも知らん歌モノの音楽が流れてて、時間になったら急に浜ちゃんの未公開ぽい弦楽器系の曲流れて、んで「HARU NO KASUMI」流れて、曲数少ないのに流すのかよと思ってる間にMinaさんが横のドアから入場して黙ってステージからお客さんの写真撮って帰った。席替わんなかったらもっと映ったぜ!パフォーマーとして見たのは初めてだけど、すげー綺麗な人だと思った。照明とかもカラフルで綺麗。この時点でお客さんのノリは良からず。

暗い中横のドアから正志氏とギタリストの田部井とおる氏参上したけど拍手起こり、一曲目。憶えてないけどすごくピアノの高音が美しかった。あとゲーム音楽ではあり得ない不協和音で楽しい部分があった。つか浜渦さん人前で演奏しないようなこと言ってたのに…(´・ω・`)ピアノお上手すなぁ。ピアノ弾く手めちゃめちゃ見たかったのに。KIWAさん反省です。

二曲目。基本的に歌詞が英語っぽいようで、あれアイヌ語じゃないのと思ったんけど、たぶん織りまぜてるんでしょうね。Minaさんの表情が豊かで、女の子の情熱的な恋心みたいな印象を受けた曲でした。「One,two,threee… Don't worry. Four,five,six,seven,eight...」みたいな歌詞があり、「五、六、七」みたいなんで締まり。非常に単純なメロディで遊ぶ浜渦さんらしい歌詞だなぁと思いました。歌詞は誰が作ってるのかは今のところわかってないけども。

MC。普通の挨拶。アーティストとしてこのMC力の尋常じゃなさが初々しい。Minaさんは浜渦さんの指示待ちが基本で、舞台中央から隅の浜渦さんを幾度も振り返ります。楽器や曲の説明も浜渦さんに一応確認取るほど何も決めてないあたりは自然で好感。「つないでもらえますか」とつっこまれるMinaさん。「Minaとはひょんなとこで知りあって、Minaのグループのお手伝いというか、楽曲提供とか音楽指導したり…。で僕ゲーム音楽の仕事してたんですけど、ゲームに声が合うかなと思って入れてみたらいい感じにうんたら」

「今日来られる方のリストをざっと見たんですけど、お一人で来られる方が多いなーと思って」「楽しみたいって思いが強いってことですよね!」「浜渦のファンは重たいって言われるんですよ。なんか前の日に別の作曲家さんのイベントがあって次の日になったら全然客層が違うって」「固くならずに楽しみましょう」←あなたたちがなwリスト見てくれて嬉しい。友達誘いたいけどチケット少ないのにもったいないと思って。

次の曲。スタンドマイクにぶら下げてあったムックリを持って、びよんびよん。これをマイクでライブで聴かせるのはけっこう大変なのかも?しかしすごいビブラートをかけることもできるし、鳴らした響きを口で止めてボコーダーのような低音も出せるみたいで驚いたー。ムックリは鳴き声や風、リズム的な配置が多かったけど、しっかり歌う部分もあって楽しかった。引っ張る腕が力強かった。

MC。「あっムックリの説明してなかったですね…」材質は竹なんですって。ソロで長めに聴かせてくれました。浜渦さんがなんかつっこみたそうだったけど間合い掴めてなかった。つーかこの人達かなり緊張してるw で田部井さんも緩衝剤として話します。すげー細くてサラサラした人だった。すげーニコニコしていいおじさんだった。声域はどこか知らんけど、二人とも低音がよく響いて好い声。明るいけど敬語で謙虚でした。

   ●親友、田部井とおる氏と●   
Minaさん去ってFFXIIIより「ヤシャス山」ギターとピアノ。「この曲名がヤシヤスさん、なのかヤシヤスやま、なのか分からないんですよね」と。手がちらりと見えたんだけど、市販のスコアとは違って、左手の跳躍は無くて中程でコードを鳴らしてる感じだったわ。とはいえプロのギタリストに対してプロの作曲家ですから、緊張か鈍りかというピアノで、二発ほどミスったと詫びる浜渦さんに続いて田部井さん「これは間違いではなくて、この二人のアレンジだとこうなるってことじゃないですか」浜渦「…その通りやなぁ…」客( ^∀^)ゲラゲラ

まだ曲数も少ないんで作りかけのレアい曲をBGMにトーク
「メモ見ましょう…BGM流しながら話す、しか書いてへん」
「二人は東京藝術大学というところに入学したんですけれども、動機が不純なんですよ。僕は作曲したいと思ってたけど勉強したことないし、と思ってたら親が声楽家やったもんですから、声楽は声変わりしてからでも大丈夫やったんでやるか、と。で彼も…ギタリスト目指してたんよね?ギター専門に教える学科が無いもんだからしょうがなく声楽科に入ったということです」
「で半年くらいは喜んで歌ってたんですけど、だんだんやっぱ曲書くほうがおもろいわーと思って、他に誰かおらんかなーと思ってたら、おったから(笑)。」「弾きながら歌ったりしてましたね」「ほんですごい気が合ってしまって。最初はなんやギターなんか担ぎおってと思って嫌いでしたけどね」的な話。緊張ほぐれているみたいです。

「彼にはアンリミテッド:サガ、武蔵伝II、FFXIIIでも弾いてもらいました。やりたいコードを思った以上に弾いてくれるので」
「浜渦の曲は頭おかしいと言われて、若い頃はなんやそんなもんってつっぱねてたけど、最近になって自分でもヤバかったんかなぁと。普通に作ってるつもりだったのに」「いや、おかしいってのは、作曲家を評価する言葉が見つからないだけでアレソレ」「別にそんなフォローしてくれなくていいんやけど…」

「BGM邪魔やね」「我々は音楽をBGMとして聴けないんですね」「…ほらここ、悲しいやろ」作りかけは気になるよね。でも我々も新曲に気が気でなかったことにお気づきかしら。
「ほんでなぜかフュージョンバンドとか組んで」「コントとか撮ったり」(゚д゚)え?
「まさかこうして一緒の舞台に立つことがあるとはねぇ。我々には感無量なんですよね」
後で「仲が良い仲が良いとはあまり言えないものでは」と訊くと、「喋ること無かったからかも」と仰せでした。

「Minaいたの忘れとった。こっち来てください」「お話は盛り上がりましたか?この二人がいると延々ボケあってるんですよ」「だって…楽しいからね(笑)」「田部井さんは学生時代の武勇伝があるんですよね?」「これ話していいんかな…?」「大丈夫です!」「まだスクウェアに入社して作曲の仕事もあんま無かった頃、大先生の曲にコーラスで参加することになって、で僕が何人か連れてきますよって言って彼も歌ってたんですよ。まぁコーラスは楽しいからね。でスタッフの人に『(゜o゜)?』って訊かれたとき、こいつが『ъ(゚Д゚)!!…(¬_,¬)』って」「もうハマとは仕事できないなってよぎりました」「そのあと俺すごいキレたらしいな。もうお前とは仕事せん!って。数日後には遊んでましたけど」


   ●五曲目〜ラスト●   
「Cirotto」鳥がなんちゃらって意味らしい。弦楽器トンコリをMinaさんが演奏。やはり女性を象った楽器で、体内にはタマが入っていて、傾けるとゴロゴロ音がしました。やはりすぐにチューニングが狂うとのことですが、絶対音感などは持ってないと主張する浜渦氏が0.5秒で全ての弦を聴きとってOKを出しました。かっけえ。MinaさんのUpopoパートの音程は配信されてるものとまた微妙に違って聞こえた。こんな大人っぽい声も出せるのね。

次。田部井さんと連弾。浜渦さんがセカンド「できたてほやほやの曲です。歌詞は今朝できました」Mina「なんかおじさんが並んでて面白いですね」
「きょおは♪ イメル♪アのっ ライブ♪ きて~くれ~て♪ ありぃ~がとうっ♪」(Blogより)音が高い1分くらいのかわいい曲でした。この曲…CDにできんくね?

次も曲あったっぽいけど忘れた。変拍子かと思いきや普通の三拍子でイカしたやつだったかしら。Macでリズムとかストリングスとか音流しながらピアノとかギター弾いてるけど、じゃあ全部それでええやんwと思うところもあり、一回ずれたらアウトだな、よく手拍子入れさせたな、とも思い。

ラスト前。バッタをモチーフにしたアイヌの歌を浜渦さんがメチャクチャに壊してくれたとの曲。「Fielen Dank」なんかでもそうだけど、浜渦さんはこういう小さくてフツーのものに目をつけるの楽しいんかなぁと思う。Minaさんの民謡調のこぶしが非常に(・∀・)イイ!! 曲調は、例えば「Zufall」とか「ドレッドノート大爆進!」とかに顕著に見られるタイプのピアノで飛びつ跳ねつのものがIMERUATになってから全体的に増えたかなと思うんだけども、この曲なんかかなりかっこいい。

ラスト「IMERUAT」アイヌ語で稲妻の意味だそうですね。かわいいと言うステッカーもそのデザインみたいです。サイトのTopでデモが流れたりもした曲だけど、フルで聴いたのは初めて。これは大迫力。普段は麗しいチェロやバイオリンが、大気のうねりに聞こえて、スコールの中にいるかのような感じを得た。どこからこんなに音出てくんだろ。ということで見事に痺れました。春の霞、鳥、稲妻、バッタ…好きなんだなぁ。僕も大好きです。やっとお客さんが恥を捨てて拍手できるようになってきた。

   ●アンコール〜サイン会●   
「5、6、7♪」の曲を暴れてもう一回。Minaさん声量Good.
「Choose to Fight」これはサプライズだった。正直ここでかなり雰囲気が変わったw ギターとピアノが片翼の天使かってほどロックンロールしててうわーって感じ。ピアノの大事なモチーフは「Botschaft」の時の慎重な弾き方に似ていたり。足音のテーマは非常に慣れた感じで軽く弾いていた。

でやっとCDの宣伝。今日買ってくれた人にはサインするよ!握手会、ピアノコンサートに続き、また長蛇の列を作る浜渦氏。当然お話ししちゃう。握手もしちゃう。CD以外にもサインしちゃう。写真撮影だってOKしちゃいますよ!狭いもんだからしばらくホールから出られない。最前列のにーさんたちがステージのメモ帳を激写。大体お客さんを観察して、僕が思ったのは、まぁヒョロりと細い人多いかな。鼻が高い人多いな。眼鏡多っ。つまり普通に考えれば幾分閉鎖的で感情が優位。浜渦さんの性格に近いものは勿論あるだろうけども、それが基本ではなくて、浜渦さんにやっと救われる、浜渦さんはわかってくれてると言うことで自分を守れるタイプの人が多いかなーと。

さて、やはり疲れを見せる浜渦さん。楽しみに並ぶ一人ひとり。僕がMinaさんとお話しして、やっぱり変に作らず気取らず、いつでも笑顔というわけですらなく、普通に素直な感じが稀有で好感。北海道にはけっこう冷え性の人多いんだと。手がすっごい暖かくて毛も多めだった。私がファンの顔を少し憶えたように、浜渦さんもファンの顔憶えるんだろうか。別に憶えてもらわなくてもいいから面白いこと言えればいいやと思ってるんだけども、今回は三度目ってこともあってお互い慣れた感じで楽しく話せたと思うよ。「e=katuhu pirka」とかもサインしてもらえばよかったな。最後に田部井氏も出てきてお話ししてもらったよ!地べたに正座させる我々酷いなと思いながら、やっぱり感じ好い人だなーと思った。

   ●雑記●   
任天堂のイベントやFacebookの動画にもいらっしゃるピアニストのベンヤミン・ヌスさんもわざわざいらしてたらしい。気づかんかったアホだ。
ライブの前後にミクシィのコミュニティでオフ会とかあったのかしら。行けばよかったかな。

あとどのタイミングか、深夜にバッハとかモーツァルトの笑える曲聞こかーっつってまさかの受難曲とかかけてこんな副旋律作りおってプギャーみたいな話も感激しましたな。
知らない曲ばかりのライブとは珍しいけど、変な残念さが無いのはいい。

まぁ詳細な記録は長く已めてたけど、記憶の弱ければいま少し子どもらしく、あと普通の浜渦ファンがやらなそうなことやらなきゃなと思って。
蛇の足ですが、文字にする前に音で雰囲気をメモっといたのがこれ。気が向いたら他のリンクとか画像とか整えるかもし。おつかれたんでした★☆★

2011年7月24日日曜日

39 産みの苦しみ快しみ

2011年7月21日木曜日、寒み

既に夏の終わりが淋しくなる涼しさ。向日葵が4日間くらいずっと項垂れている。

  外に出ることについて 


外に出るのはめんどいけど、実際出てみるとそうでもないことは知っていた。何でもそう。
外に出るとなぜか分からないけど発見があったりやる気が出たりするのも知ってた。
その理由は、予想外で新鮮な情報がめちゃくちゃ膨大にあるからだろうと思い至った。
正直パソコンにも予想外な情報を流すソフトがあった方が好い。あと画面大きくするべき。
そうはいっても、家にいて自由にごろごろしてる方が好きだった。


が、最近になって変わった。外出は在宅と同じくらい有力な選択肢になることが増えた。
というのも、人に接することが面白く感じられるようになってきたからだと思う。

実際に3次元の情報量や容貌に親しみを感じられない人には現段階では当てはめられない心情かもしれないという前提で以下理由。

1)外に出れば、実際に反応が得られなくても、自分のことが少なくとも認識はされることで、表現する欲が満たされる場合は多い。話聴いてもらえただけで満足、日記書くだけで満足するのと同じ。

2)意外な出会いに期待も寄せる。意外なことは意外と意外でもなく起こり得るものだと思ってるかどうか、普段体験している小さな偶然や出会いの可能性の稀少性を認識しているかどうかが、現実や日常という退屈がちな言葉を楽しめるかどうかに関わる。また、その世界観は、他でもなく自分自身が意外なことをいつでも起こし得る可能性が充分に有ることを認識しているか、あるいは意外なことを起こす勇気を持っているかどうかに影響を受ける。意外性を楽しむ感性についての話は長いので別に。

3)人を動かすことに興味が湧いてきた。変化が楽しいという意味では前言った通りであり、特別人を操作する楽しみについては後日書く通り。

4)前にも何度も言うように、ちょっとしたできごとで、大きく物事に影響を与えることは様々な事物において多々ある。また、少し詳しく書いたように、何でもできるようになっておいた方が好い。ついでに言えば、後に良い影響を与えるものであるほど早く経験する方がよさげだ。だから、できるだけ多くの経験をしておくこと、とんだ偶然でもいいから面白い人に出会うこと、人と付き合う技術を磨くことを考えると、外に出ないではいまいち難しい。他人や世間の強力さについてはまた後で書こうかな。

5)東京では当たり前に知らない人同士はみんな知らんぷりだけども、すこし出てみれば、すぐ話しかけられるような文化もある。自分はそういう文化に身を置いていた憶えは無いけども、そうでないのが不思議に感じている。ここまで引っ込まなくていいだろ。なんか人同士がカチコチにぶつかるような環境ができたせいで、心身ともに引き籠る人もできてきちゃったじゃない。もっと日本人の奥床しさを全面に出せるような生活ができるようにみんな考え直さないといけません。


大事なことは例えば、自分が良い情態であることに気がつく感性だろう。
めんどくないのにめんどいとか、けっこう楽しいのにつまらんとか、別にムカついてないのにマジウゼエとか誤解するのは損なことだけども、けっこう多い。癖になって常用する人も多いけど、そのへんは日本人的と言うべきかも知らん。大人になるにつれて不安なことが積み重なっていると思うのであれば、先入観とか希望に惑う愚かさよりは、子どものように今の自分を生きる素直さの方が人生を楽しましむことは明らか。その上で、自分が大人だと思うなら、今の自分以外の場所にも楽しみを分かつ思考回路を制作すればハッピーな時間は増える★☆★

2011年7月18日月曜日

38 兄弟みな友達〜夏がくる

2011年7月17日日曜日、スカイブルー

いろんな中学の一年生達が集って小学生とお話しする会に参加してきた。中学生は辛いことも経験し始めるし汚れを纏い始める時期だけど、この時期はむしろ小学生よりも子どもだと言われるほどまだ若い。開放的な雰囲気に意気揚々とし始める子も多い。そんなわけで、初対面の子が殆どだったのにも関わらず、お祭り的な雰囲気も手伝って、みんなまるで知り合いかのように楽しく話せた。中には知り合いの子もいて、ちゃんと憶えててくれて嬉しかったし、快活に楽しんでいるようでなお嬉しい。
   例えば仕事仲間と仲が悪くても、仕事が終わってからだと嘘のようにお互いを認め合えたりするように、余裕があると人間関係が全然異なる。上に誰かいると安心するし、下に誰かいてもそれはそれで安心する。小学生でそういう経験はあまり多くない。

そうして比べてみれば、小学生の方はやっぱりあまり個性を表出してない。自分もそうだったけど、恐らく最近はますます、してもいいこととよくないことを自分で判断させてもらえない子が大部分だから、別に悪いことじゃないと思うけど親の許可がおりないと心配で安心して自由な表情も作れないって子が多いように思う。自分の素直な気持ちを表現させない教育は、時代の流行でもなければ深い思慮があるとも考えられ難い。そのへん兄弟がいるとずいぶん変わる。
   でも大人でも変わらん。仕事で、これ自分はこう思うけど一応確認取りたいなぁ不安だなぁってことは多々ある。だから前もって分かりやすくいろいろな場合を汲んだ説明をすることが大事だし、自分で判断できるように豊富な知識を持つと良い。どうしたら情緒が安定するのかについてはいろいろ考えてるけど、とにかく子どもに限らず大切なことだからいつも注意してる。

5歳の子がお母さんとお兄ちゃんが中一と話してるの数十分静かに待ってた。ものわかりがいいと見るか、諦めが早いと見るか、自分にはそもそも他人にあんまり興味が無いように見えた。それでもあまりずっと放置されて暇と不安とが募ったみたいだったから忙しさの合間に少し話したら、やはり現状を甘受していて新しいものを求める雰囲気ではなかった。頭があったかかった。やはり末っ子生まれながらの甘えんぼ気質だと思ったら大間違いだと思う。

帰りに電車内で2,3歳の男の子と眼があった。自分は眼があうと特に面白いことできなさにすぐそらしちゃう癖があって、でもそれだと向こうはこちらを安心できる身内として認識するのに大きな妨げになるし、逆にちゃんと眼を見ればちゃんと真っ直ぐに自分自身を見ているということが分かって好感を持てるものだと思ったから、意識的に見るように、眼が眼を見るという奇跡が起こってしまってもそれを維持するようにしてる。向こうは意外と眼をそらさないけど、それは面白いこと待ってる気もするから現状で満足はできない。
   しかしまぁこっちをじーーーっと見てくる子どもの方に感心する。子どもってのは変に怖いものを知っていなくて、よく分からないものにはほんとに遠慮無く突っ込んでくるものだし、新しいものを求めているんだな、と。知ることと遊ぶことというのは深い関係があるように思うし、遊ぶことはつまり根本的極楽ではないか思う。

それにしても小学生よりは中学一年生や就学前の子どもの方が、同じ教育をする親の元にあっても、よっぽど抵抗無く会話してくれるという事実が面白い。特に、小さい子の器の広さは、教育の莫大な可能性を考えずにはいられない。彼ら以上に素直にならなければ良い教育は見えない。現状とはかけはなれている★☆★

2011年7月17日日曜日

37 さむいろアイリス

2011年7月16日土曜日、一滴の水

久々に清史郎くん見て清められたり、知り合いの男の子に遇って男女の違いを考えたり、記憶と結びつけて音楽のセンスを得たり、人の話を聴いて集中について理解したり、都会を歩いていろいろな物を見たり、久々にゲームして思考力を確かめたり、気のおけない人と話して満足したり感謝したり、想像力についての理解深まり、音楽聴き。


さて、最近ごく単純な生活習慣の変化があった。
暇な時間が減った。自分の言う暇ってのは、詰まらない、物足りないってこと。
何かしてる。わりと忙しく。

なぜなら、簡単な認識を得たから。

事実1。「いつかできたらな」「とりあえず保存しとこ」「忙しくなければ全部読む」とか思って、放置してることが山より高くあることに気がついた。眼には見えなくても、ちょっと考えれば、子どもの頃から積み重なってものすごい量になっている。

事実2。暇でウザい時がけっこうある。口癖は「なんかねーかな。」これは、何かやるべきことややってもいいことではなくて、何か面白いことやおいしい物を求めてる。

事実3。ちょっとやって疲れたら放置して、また懐かしく感じる頃にやってた。いっぺんに短い時間で終わらせたらもったいないし、物事には好機というものがあって、それをやるに相応しい感性や能力、波長を持ち合わせた時にやるのが最良だと思っていて、それは長い人生ゆっくり待ってれば良いと思っていた。

事実4。ぼくはすごいめんどくさがり。

↑これが今までの自分。

事実5。いつでも何かしてる人がいる。

事実6。すごい量の情報や経験を持っている人がいる。


思想1。↑これが同一人物の仕業だろうと結びついた。むしろなんで今まで気づかなかったのか。

思想2。準備ができてから取り組むより、取り組むことで状態が同調していく力を採った方が利益が大きそうだと思う。これは前書いた。また、続けて一気に大きく取り組む勢いがあれば、モチベーションを保ったまま深く入り込みやすい。

思想3。何でも早い方がよさげ。一概には言えないけど、例えば、早くに身につけるほど、その後の生きる時間は長くなり、その間に経験することも増え、その全てにことに身につけたものとの比較、応用、帰納、様々なことで、ものすごい差の役に立つ。

思想4。巨大な物事にも取り組もう。これも前書いた。後にも書く気がする。巨大なものに終わりが無いという考えに負けない考え方の話とか。

思想5。別に面倒じゃない。後で書こう。気持ちの問題とかそんな話。いつもそんな話。


結果;暇があれば本を読んでテレビを観る、部屋の中や頭の中を整理整頓する、足りなくなれば落とす、買う、作る。夏休みがこれほど楽しみに感じたことは未だかつて一度も無かったかも知れない。とりあえずすげー眠い明日すげー早い寝る★☆★

2011年7月15日金曜日

36 おとなるこころび

2011年7月14日木曜日、満月

日経新聞の読み方みたいなのがポストに入ってた。新聞持ちにくくて死んでほしいけど内容にはけっこう興味持てた。文字読むコツつかんだ。いわゆる若者の中で新聞を読まない人は半数に近いと知ったときは驚いたけども、というのも自分が新聞読んでないのは相当珍しいことだと思っていたからで。

経済や政治にはつくづく味が興らないまま廿年間生きてきたのは、味を教えてくれる人がいなかったのは勿論揺るがない理由の一つ。最近自分で興味を持ち始めた理由を話そう。

そもそもなぜ興味が持てなかったのかというと、これは他の分野でも自分の成長を妨げるとても大きな思想が原因で、というのは、規模が大き過ぎてとても理解、制御できないと思ってた。
   もともと、手っ取り早く全体像を鳥瞰してレベルの高い実用的な表面の形から入って問題が起こった後から初めて調整するようなタイプではなくて、まずは深く潜って本質的な細胞をできるだけしっかり捉えてから組み合わせて一つ一つを正確に積み上げてどれほど遅くても完璧な全体像を作るタイプだから、あまり大きなことや人間が関わることを理解するのは現代の人間の技術では到底無理だろうと思ってた。
   というのも、目の前に見える具体的な現実こそが本物の世界だと見るか、その後ろにあるのであろう抽象的な精神や原因、超越的な存在こそを本物の世界と見るか、この世界観の違いが大きな原因の一つではないかしら。
   結果的に完璧主義で理性的で、文化よりは科学を好んで生きた。


ということだけど、最近になって、巨大で難解なもの、つまり保健や天体よりは心理や歴史のようなものを理解するのに前向きになった。以下理由。

一つ。この通り、物事の原因は一つだけではなくて複数の力が合わさって一つのベクトルが生まれると気づいた。だから、どんな些細なことでも大勢に全く関係無いということは無いと思えた。そして逆に、大きな物事によって自分に身近な些細なことにも影響が及ぶと思えた。
二つ。大きな物事も意外と小さな選択で動いてしまうものではないかと気づいた。前に書いた通り。どこをどう突けば結果としてどこがどう動くかを見るのは、見えないものを見るようでとても面白い。
三つ。行動して変化起こすことが楽しくなってきた。これは感性がそうかどうかで、それが正しいとかそう感じるのがいいとか思ってないけどなんかそう感じようと思った気がする。

とかそんな感じ。子どもの頃に教えてほしかったことばかりです。経済や政治は、金銭や社会制度を自分の問題として気にし始めたら少し身近にもなってきたしね。

やっぱり一つのテーマで書いた方が圧倒的に読みやすいから今日はここまで★☆★

2011年7月14日木曜日

35 きみも、なつやすみ。

2011年7月13日水曜日、晴れ

日の入りの時刻が先週くらいから早くなり始めたみたいだ。午後7時でも明るい世界には感動する。絵画か何かのような奇跡に見える。バイト先で、夏休み前のざわめきが起こっている。


●職場で、職員が職員を教育する。職員がバイトを教育する。バイトがバイトを教育する。
教育機関で、講師が生徒に教育する。先生が子どもに教育する。
これはかなり似通ったことに思える。
   自分の持っているものを相手に伝達する。お互い雑念が邪魔しないように、解釈し易い形でまとめたデータを、魅力的に提示して、共有させるだけのこと。

●友人との会話や宴会で、場を盛り上がらせる。
子どもと遊ぶ。子どもを楽しませる。
これも別に変わらん。
   嬉しいとか退屈とかの根本的な感性は、普通の人なら、体が成長しても違う生き物みたいに変化するわけじゃなくて、基本は同じ。褒められれば嬉しい、知り尽くしたら飽きる、成功すれば次を求める、人と接すれば自意識と心配りが強まる、笑顔を見れば生理的に良い反応が起こる。大きい人も小さい人も違うのはもっと表面的なことばかり。

だから、別に大人と子どもを違う生き物みたいに区別して扱わないでよかろうと思う。ただ、子どもの方がより素直に感じて、正直な反応を示してくれることは分かると思う。つまり子どもを上手に扱えなければ基本を全うできていないということにしよう。いろいろなことで言えること。

そして、子どもは特に、同じ時間に摂取して消化して吸収する情報量が半端無い。時間が止まってるように感じるほど子どもは空間、世間に対して時間が遅くて長い。適応の速い子どもといえど、むしろだからこそ、ただでさえのろまな大人が自分を抑制しているようなスピードにはなかなかついてこられない。感性が現れたところに正確に言葉を命中させて、かけがえの無い存在にならないとナンセンス。



逆に。家庭や人間関係に関心の無いビジネスマンや、ナンパばかりして無駄遣いをするチャラ男が実生活に役立つ能力を持っていないかというと、とてもそうは思えない。世間の教育に折れず、勇気を持ってチャラくなった人は凄い。かくいう私はチャラくもなければ職も無い。金も学も、頭に比べれば微塵程しかない★☆★

2011年7月11日月曜日

34 健全な精神は健全な肉体を宿す

2011年7月9日月曜日、梅雨明け

いろいろ圧力をかけられてたのに、また集会をサボってしまった。いい加減キレられないかとヒヤヒヤしてるけど今さらキレられたらそれはそれで可笑しい。

意識的に寝るってことがあんま無い。まぁだから寝坊したわけだけど。が、朝から翌朝まで帰れない眠れない予定が入ったから、頑張って寝ようとした。朝までずっと意識あるまんまだった。覚醒してる夜に瞑想すると、いわゆる覚醒夢に近い感覚に浸かる。夢には人類史上の大発見がいくつもあるが、普段は目が覚めて一瞬で消えることが多いのでもったいないのがウザったいというのが意識的に寝ることに積極的になれない一つの理由。

というわけで以下雑多なこと。主に身体について。


ふくらはぎは睡眠の状態を表すと元医者が言ってるし、一時間のストレッチは6時間分の睡眠効果があるとかも聴いたことはあるし、実際眠いときには自然と体を伸ばしたくなるし、眠ろうとすると体の縮こまり具合が気になってイライラする。今朝思うに、けっこう信じこんで良さそうな感覚だと。終日体を支える脚の疲労を自然に回復させるのはやっぱり睡眠が最良だと考えて違和感は無い。乱暴に言い換えれば、ふくらはぎに眠気が居るようなものだ。

腹式呼吸が万病を防ぐ魔法の健康法なんてことはきっと数千年前から言われてるんだろうし、まぁ誰でも何となくでも良いような感覚は分かる。今朝思うに、やっぱりそうかなと。別に流されているわけではなくて…。さっき言った、睡眠から覚めると何もかも忘れるというのは、日常的なレベルでもあることで、目を瞑るとイメージしやすい、目を開けるとイメージが吹っ飛ぶ、音の聞こえないところでいい音楽は生まれるのと同じことだと思う。これが昔から自分にとって大きな問題なんだけど、覚醒しながら深い意識を運用することは可能だという信条はあるから、境目にいる間に方法を探っていたんだけど、どうやら深く自然な呼吸は大部分を持ってると見て正しそうに感覚したという話。まぁ呼吸だし。

個人的に面白いと思う健康法にぶつかった。よく美顔とかダイエットとか肩こり改善とかで、どこをどの指で何回一日何分ってあるけど、あれ全部やるわけにはいかんし、結局流派多過ぎ統一しろって思うじゃん。さしずめそこから自分が導いた答えは、気になったら全部触る、マッサージするってことで、とにかく気持ちいいとこマッサージして悪いわけないし、結局そういうことだろと思ってた。
   でさっき思いついたのは、もう少し展開しただけだけど、なぜかすごく新しくかつ面白く思う。それは、気になったとこをただ押すんじゃなくて、擦るというか、揉み倒す。押してマッサージするようにけっこうな圧力はかけつつ、炒めるようにかき回す。そうすると、最初は何も感じないのが、だんだん痒くなってきて、悪いもん表に出てきたとこでしらみ潰しにするゲーム。いや、最初はなんでもないのに気持ち悪くなるまでずっと擦って最後は気持ちいいなんてよくできてるなぁって思ったら自分のほっぺでやってたって話。こんだけのことだけど誰かやってるのか真面目に気になる。


あとは音楽や読書についていろいろあるけど適当な時に出す。

諦めて起きて、冴えわたる感覚で自分の曲聴いたら、自然に聴けて驚いた。普通だったら、作り物の方が圧倒的に劣っててまだまだだなと思うところ。さすが向陽さん。ただし、あんまり満たされ過ぎてて先が出てこない★☆★

2011年7月8日金曜日

33 陽のしずみ 天に響ける 小川かな

2011年7月7日木曜日、時に雨

奇数が重なる重陽の日。陽が強過ぎるから、七夕の節句をする。
   そんなお昼、電車に乗って本を読んでいたら、ぼくの大好きな子役の小川向陽くんが、一面のひまわり畑に立っている絵が見えた。そして、はっきり音が聞こえた。急いで電車降りて描き留めた。採った音が合ってるのか何度か不安になったけど、帰って打ち込んでみたら想像以上に素晴らしい音が鳴ったので満足。だけどまだ主題ができただけやん。夏の暑さに身を置いてまたの出逢いを俟つ。

日々音感鍛えといて本当によかったと思う。楽譜にしておかなかったら、あるいは音名だけでも分からなかったら、二度と思い出せなかったかも知れない。実際帰る頃には涼しくなって、自分の頭には違う音楽が繰り返されてた。

何かイメージが浮かぶときは、音や絵が単体で来ることはあまり無い。全体的な雰囲気が、夢を見るみたいに、その場にいるみたいに、ガッと来る。だから音を憶えるのに映像を憶えるのはかなり役に立つ。音だけで気持ち好さを追求してもなかなか一つに定まらないけど、拠り所になるイメージがあれば、いつもそれを基準にするとすんなりと一つに決まる。どんなに簡素で捻りの無い音でも、素直で美しく、退屈さは無い。

今思うと、本の読み方を少し変えたことがイメージが浮かんだ原因だったのかも知れない。誰かが書いた文字を読んでしっかり理解できるということの不思議さは常日頃考えていて、基本的に本の内容に集中できないでいるんだけども、この日も考えていた。今までは、文字の見た目や音声に囚われて想像が妨げられないようになろうと思っていたが、その思いがかえって文字をよく見て深く入り込むことを妨げていたことに気づいた。まずは文字を文字としてしっかり見てから、自分の広いイメージの中で操作する方がよっぽどよく分かる。景色を眺めつつ少し集中して読んでいたら、ふと向陽の映像が広がった。

あ、あと本の内容が、陽が出てると元気になって、雨だと病気みたいになっちゃう子っているよねーって話だった。共感してた。それから、体力尽きるまで遊び続けてしまう子っているよねー、充電できない電池と同じだねって話だった。重陽なのに向陽であるのと同じだと思った。

ちゃんと完成しますように。小川向陽に会えますように。向陽がずっと向陽でありますように★☆★

2011年7月7日木曜日

32 陽をあつみ ゆるさなくなき 人のわかな

2011年7月6日木曜日、晴と小雨

結果は悪いだろうが遠慮せず書く。

そうだ、七夕になったとこだけど、この前日本最大級の音声投稿サイトの企画ページに使う七夕系のBGM募集っていうから応募したら採用されたんよ。とは言っても15しか応募が無かったうちで4つくらい採ったみたいだから凄くも何ともないんだけど。去年のクリスマスにも採用してもらった。

さて、今日も業者と電話した。人と話すと、もっとあぁ言えばこぅ言えばと反省が沢山上がる。毎回いい練習になる。とは言ってもこっちはクライアントだから焦る必要は無い。ゆっくりしていい時にゆっくりするのは得意。と思ってはいたけど、向こうの忙しそうな雰囲気に、もう少し気を遣えればと思った。電話や来客はいつになるか分からないし、何を措いても即座に応接する必要があるから、余裕の無い時にエンカウントしてしまうと気を落ち着けるのに一つ苦労してしまう。

午後は大学とか警察とか音楽隊とか障害福祉とか運動会とか大手門とかを合同させる打ち合わせ。これも気を遣ったけど上手くいかない。躊躇無くキャラクターを与える感じにしたい。というか躊躇があるから思いきり気を遣う。組織の管理の甘さに責任があるとは言える。

今日は子どもの雰囲気が好かった。かなり仕合わせもあった。が、ちょっとナメられたのは服装が軽過ぎたせいだろう。キャラクターの服はいつ着ても誰にでも注目されてしまう。誰より大きな声でよく喋るしニコニコしてる子なのにちっこくてぷにぷにしてるのがよく理解できてないけどすごくかわいい。


課題も出したし、調子はよさげ。
昔からよく髭剃れって言われるし、髭だいっきらいなんだけど、必要に迫られずに剃るのもナチュラルに反してるように思ってたし、剃るとかえって濃くなるとかいうけど、最近久々に剃ったら8歳くらい若く見えた。つっても線や面では描けないくらいの雰囲気ヒゲだったんだが、肌への関心が重くなった。

前に聞いて感心した話がある。
男性は肌が汚くてもしょうがない。女性は羨ましい。女のくせに汚い。と言うけど、女だって美しさを保つためにいろいろ努力してるんだ。と。なるほどそりゃそうだと思った。男女問わず、若くなりたければそれなりの索が必要だ。

子どもの美しさについても同様だと考えてる。さすがに限度はあるかも知れないけど、彼らの生活には、若くない人が今からでも取り入れることの可能な若くなるための要素がいっぱいあるように思う。引き続き探そう★☆★

2011年7月6日水曜日

31 I scream my shelf.

2011年7月5日火曜日、入道雲のち雷鳴

どうせうまくまとめられないから書き散らそう。日々の変化を追えないのは困る。

今日は発言権を多くもらった。自分から話したわけではなく。以下成果。
生まれて初めて企業に電話して打ち合わせ。電話はもっと慣れたい。
リーダーが忘れてる仕事指摘させてもらった。子役の話もしてくれた。
あんま話さない別のリーダーと音楽表現をすり合わせ。意見は違わなかった。
会議。全部みんなが決めた後、議長に意見を求められ、根本を質して振り出し。
ネットでもちゃんと卒業するように叱咤激励を受けるが、疑問は隠さない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

じゃあこんな話をしよう。
聴き上手と感嘆されることいくらかのぼくだけど、最近話しが上手くなりたいと思ってる。今思いつく理由は以下。

一つ。大きな前提。
自分は、日常のありとあらゆる現象は大体つながってるものと思ってる。
例えば、日常のありとあらゆる所作は大体その人を表現するものと思ってる。
例えば、服装、話し方、物腰、学業、顔つきから性格が分かるもので、逆も然りと思う。

二つ。
何でも上手い方が好い。これは前も書いた。
何でも上手くなれば他のものも大体上手くなる。つながってるから。成長したい。

三つ。
大したことなさそうでも実は意外と大きくなることが多いと思ってる。つながってるし。
例えば、物事ってのは、ちょっとしたことで大きく動くことがよくあると思ってる。
反論もある。元々深みで強い力が働いてるから、軽い刺激で爆発するだけ。一理ある。

例えば、偉い人の一言で動く政治や歴史。手が滑れば人も死ぬ。芸術も、画竜点睛と言う。
あるいは、一秒二秒の差、声の数Hzの差ですら与える印象は変わる。俊敏さも最近欲しい。

四つ。
積極的になろうと思う。これも前に書いた。
絶対正しいものを追求しても分からないから諦めた。主に3年間頑張った。
となると、善悪は無視して楽しむのみ。正しさは自分が決める。社会の正義は多数決。
変わるのも変えるのもなぜかとにかく面白い。
やろうという気持ちがあれば、やろうと思わないよりはできるはず。つながってるから。

五つ。
人の気持ちが、どこでどういう風な情態か、どこでどう動くかを感じるのがとても面白い。
音楽でも学習でも運動でも、注意していると内面の動きが手に取るように分かる時がある。
ましてやそれを操作して、人や物事が動くのであればとても面白い。もっと理解したい。
単に芸術や表現が与える印象を理解したいという欲望が昔から強い。

六つ。
抽象的なものよりも具体的なものを見たい。意味よりも形式を見る。
子どもは感受性半端無い。同じ「今」でも情報量の差が大人とは膨大過ぎる。時間が濃い。
大人が理性的に「同じ」と見るものも、子どもは全部が絶対的な違う存在に見える。
そんなのに憧れる。即興性が欲しい。理性はじっくりなかなか頑張った。やぁ感性。


そして、音楽的な要素も慮りつつ、いろいろ見てるといろいろ分かる。
最近得た答えの一つは、自分にしてはあまりにも陳腐で認めたくなかった。
それは、噛まないでスラスラ言うこと。慣れてないしトロい自分には大変。今日はここまで★☆★

2011年7月4日月曜日

30 MONO no uzu

FF13OST+聴いた。久々に武蔵伝2とか聴いた。
FF13-2の公式サイト見た。やってないけど感動する。
IMERUATのMyspace見た。ランキング載ってるし。ライブ楽しみ。

偶然と浜渦さんの音楽を沢山聴く最近。思うこともある。

◯とにかくサウンドがいい。どんどんよくなってる。浜渦さんってば、音質やミックスの技術が上がる今日、もっと音楽そのものの質を上げるべきだ、みたいなこと言って、一体どこの誰よりもいい音じゃないかと思われる。もちろん全然悪いことじゃないし、ただ良い道具を使えばよくなるわけでもない。

   そうは言っても、自分では最近理想の音が出せなくて困る。ついちょっと前は、音の違いはさして自分にとって問題ではないと言ったけど、今はもう問題。というのも、聞こえる音が想像と狂うと、他の音とのバランスに影響が出る。メモのような抽象的なものばかり溜まって、音に体が無くて自分ですら何がやりたいかわからにくくなってしまう。現実主義的な最近の自分には辛い。


◯長い音が多い。元々、メロディよりはコードばかり鳴らすような人で、メロディも単純なものが多いように思うけど、それはいわゆるメロディメーカーとは対照的。どうも何かを作る側は忙しい物にしてしまいがちな傾向があるし、メロディは楽曲の顔、顔無くして生命無しと思いがちな人もいる中で、浜渦さんにはメロディとは言い難いような曲も多い。

   わかりやすいメロディやコードってものは、場合によって、のん気で自分勝手で押し付けがましい感じも与える。逆に、いろんな解釈ができるような、意図的でない深い景色を描くような表現にしておくと、聞く人を落ち着けられるが、ただ曖昧で取り留めの無いものに終わりがちなのが表現としての注意点。

浜渦さんがそういう性格か、あるいはそういうものを求めているんだと思うんだけど、長い音を支えるのはその意外で感動的な音選びであったり、良い音質であったり、長く鳴っている中でも変化する音の要素であったり、周囲に広がる広い空間だったりするわけで、やっぱり持ってる音の乏しさがちょっと嫌になるこの頃。


◯繰り返しが多い。これは自分も好きだし、そういうのに特化した音楽のジャンルもある。元々ゲーム音楽はリピートするのが基本だけども、浜渦さんにはアレンジ曲やモチーフの再利用も多い。同じものを何度も使うというのは、一つ一つを長く大切に扱う清貧の精神であったり、一つのものをいろんな風に見る能力であったり、それをますます多様に変化させる想像力であったり、いろいろな性向を感じるところだけど、逆に、一つのものを膨大な角度から見て、その中からまた一つに絞って他を捨てるというのは、如何でか強さが要りそうだ。

繰り返し、反復、振動、波、回転、これらのものは、物事を学習して達成するための練習であったり、他人の信頼を得るためであったり、精神の深みに入っていく術であったりして、科学的に正しいと認められる術に他ならず、生活習慣病、諸々の文化を生むのにも大きな力になってる。鬱病の症状でもある反面、実はこのような音楽が合法的にトランスに飛ぶヤクとして使われることもある。精神を破壊する音声も刑務所か何かで使われてたそうだし、モノは使い様ですな。そして音楽業界自体が古いものの繰り返しで、まだまだだと思う。いつも思う。


さしずめまとめ以上。どうせ考えてること完璧にまとめようとしたら膨大になるから諦めよう★☆★

2011年6月22日水曜日

29 あいすこいし二十余の年

とある日の日記。

久々にバイト行ったら、
イベントがあってみんないて、
忙しい寂しい仕事ではなくて、
沢山の好きな人相手に仕事できて、
おいしいお昼ご飯出されて、
アイスおごってもらって、
缶コーヒー飲ませてもらって、

いろいろ特別で楽しかった。

今の行動が半年先にどう影響するか見えてないために、上手に教育できてないのを反省した。経験や情報が圧倒的に少ないとはいえ、もっと考えてもいい。
人の顔はこうも違うかと沢山の顔見ながら考察を深めてた。顔の上の方、目の辺りが膨らんでるといい顔。下方になるほどいまひとつになるような印象を得た。
最近ラ行で始まる名前で整った顔が多いかなって思ってたけど、どうやら学力が上の方に顕著に多いみたいだ。そして新しくヤ行、カ行が興味深い。
とりあえず素早さが無い。何しても素で遅い。速くしよう。一つのことをするのに周りがしっかりしてると中心も格段にしっかりする。もっと容赦無くガバっと見る。
合間に思いついた曲メモってほくほく。最近サマになってきたんだけどこういうの持ってゲーム会社とか行ったら雇ってもらえんのかな?


帰りにナメクジがいっぱいいる所を発見。久々に見た。ちょっとかわいい。
気になる方へ歩みを変えるミニマム散歩はなかなか勇気が要て楽しい。
本屋で立ち読み。自分てけっこういろいろ興味持ってると思った。
背表紙見てるだけでも幅広いこと分かった気になって、ちょっといい気が湧く。
一冊文字をざざっと読んだ。読む度に読むコツが分かるが読むのはめんどい。
名付けの本は一様に響きとか画数とか有名人とかがあるのに意味の項目が皆無で嘲笑した。
ゲームや数学の本にはやたら興味ある。俗に言う運命はそこにあっておかしくない。
二店目で目当ての本を購入。昔は絶対こんなにお金使わなかったのに。



↑ドラマ「名前をなくした女神」の藤本哉汰くん。この後写真は数枚しか出てこないけど、内容も一生懸命だからドラマ見てるみたいで面白いすな。子どもできる前にいろいろ知っておきたい。しかし最近の本はどれも変に商業的で驚いてしまった。哉汰くん使うのはいいけど、誇張表現が多くて何とも。まぁそのくらい当たり前にスルーできるようでないと会話も彩らないだろうからいいんだけど。
ジャニーズとか育児とか小学一年生とかの雑誌もいいけど、同じ質で子役とか子どもの情報誌あれば買うのにな。


家に帰ったら、ピアノがすげー上達してた。最近音楽も一応勉強してるからね。
上達すればするほど、自分の中で新しくなくなって、感動として発表しにくくなるんだけどもし。

毎日同じように流れる時間を特別に感じることは、子どもらしいワクワク。特別にするには、一日の始めに予め何をしたいか考えておいて、一日中何か特別なことがあったらちょっと心に留めておいて、一日の終わりに思い出せばいい。日記はそのために役立つ。思い出すという作業は面白いし、やるのとやらないのとでは心の広さが天と地の差。わかってるけどめんどくさい★☆★

2011年6月17日金曜日

28 GanBaraged To Do Me Ka.

こんちあ。気分がいい。

ぼくがDTMの遊べる具合についてごく簡単に書くだけの回。
天てれのMTKをピアノ用にアレンジしてたつもりがいつの間にか楽器増えてニコニコにうpするまでになったのは10日くらい前の話。あるある→ sm14666000「カラフル!」

DTMとはDeskTopMusicの略。細かい定義は知らないけど、パソコンで作る音楽の総称
MTKとはMusicTerebiKunの略。てれび戦士がプロに作ってもらった曲を歌うコーナー。

PC買って、Macなんだけど、GarageBandっていうDTMソフトが付いてきて、最初はヘルプ読んでもよく分かんなかったし検索してもつまらんおもちゃとしか書いてなかったんだけど、ある日打ち込みができることに気がついた。つまり楽譜書いて演奏させられるってこと。そして最初の8秒の曲を作ってから、一年くらい経った。

もともとピアノは弾いてたものの、楽譜見て曲をしっかり弾くわけでもなく、音楽理論を勉強するわけでもなく、特別思い描く音楽があるわけでもなく、でも新しいものを求めて、しかも楽しく弾いてた。ようやく楽譜に保存できる機械を得た。打ち込んでみると、意外でもないが、ちょいとしたテクニックでけっこうそれっぽく聞こえるもので、音色や面白いエフェクトがいっぱいあるからあれこれ作ってみた。

明らかに音に親しくなった。音が眼に見えて触れるような感覚がある。普段自分で楽器を演奏するときに例えば跳ねるような感じでとか僅かに後らせてとか装飾音は短くとか、明るくとか柔らかくとか悲しくとか、そういう楽譜には書ききれないことも全部自分で書かないと表現できないから、どういう仕組みでどういう風に聞こえているのかの勉強になる。何が大事で何が大して意味無いかわかってくる。

DTMは、楽譜を沢山の要素で詳細に書けば書くほど豊かに演奏してくれる。書いたら何でも演奏してくれる。逆に普通の楽譜を書いても全然生命感のある演奏はしてくれない。ユーザーは作曲家と指揮者を兼ねる。普通の音楽家以上に編曲や音響もできる範囲で自由に考えていい。ドラムと篳篥と海水浴の音に合唱付けてフライパンで炒めてもいい。こんなに面白いもの子どもに与えたら…根気は要るけどすぐ慣れるだろう。GarageBandには紙と鉛筆に劣らない自由さがある。

音楽のことになると急に難しい言葉使いたがったり手厳しかったりする人っていっぱいいるじゃん。拍がズレてるとか音質は何Kbpsがいいとかどこの何万のヘッドフォンじゃないとだめだとか。DTMでも楽器より高い楽器の音が売ってるし、GarageBandなんて2000円くらいらしくてそれこそおもちゃみたいな扱いされることが多いけど、正直自分には音について細かい違いが分からん。少なくともまだこのソフトで充分だし、高いソフト使ってどうでもいい音楽しか聞かせてくれない人が多過ぎて良い物はまだまだ買う気がしない。音色かなり変えられるし、無料でもいっぱい音あるし。

だけどまあ、音楽に詳しい雰囲気出してる人いっぱいいるし、演奏すんのうまい人もいっぱいいるから、やっぱり自分はこの程度で満足するあたり耳が貧弱なのかなと思ったりするし、しつこいけど自分の音楽に理論とか無いから、恥ずかしくてドドンと言えないではいるさ。作ろうと思ってそんな作れないしね。何となく元気なときにぽぅんと書ける。今ならできる!って時は勉強でも運動でもあるしょ。

まぁ基本的に何に投稿するでもなくひとりでに作ってるから何とも言えんが。思いついたので書いといた★☆★

2011年6月15日水曜日

27 Flow PackAge

積極性と消極性の意味

「積極的」ってどういうことかというと、自分はいつもイメージする形がある。つまり、今の現実の自分のイメージがあって、理想や空想がそれよりも大きくあって、その差、足りてない空白の部分を埋める、積むような、あるいはもう積まれているかのような物事の見方や行動、これが積極的な態度だろうと思う。何も無いところにも自分を広げていく性向が積極性なんだと。

逆に「消極的」と呼ばれるのはどういう形かといえば、現実の自分を過小評価してでも、それをはみ出さないように、その範囲内で収まる物事を見る、という態度だと思う。自分よりも小さいものに取り組むから、自分を幾分持て余す。実際には、積極的でも消極的でもないバランスの取れてるものの見方も、消極的と呼ばれることが多い。

自分自身の見方

いわゆる消極的な人は、自分や現実世界を正確に見ること、完全な正しい世界に固執して、それを超えればどんな取り返しの付かない危険があってもおかしくないと考える保守的な見方に基づいてるように思う。特に子どもや世間知らずな大人については、現実社会の多数決の正義ではなく、数学のような形而上の完全な世界があって、その中に絶対の正義があると信じきっている場合がとても多い。慎重派で、引き篭もりがちだけど、必ずしも成長を怠ける場合ばかりでもないし、自分の範囲内で、小さいけれども起伏に富んで完成度の高い仕事をすることが多い。

積極的な人たちは、自分でない部分に自分を見る想像力はあるが、そこに踏み込んで実行してしまう分、行動しない人たちよりも現実的に現実を見る。もしかすると単に自分を過大評価してるだけのことかも知れないが、とにかく危険を冒してでも外に向かって多くの経験を自分でする過程で、実際の自分や世界の形を知る能力は、正しい自分を見ることに専念する消極的な人たちに劣らず強そうに思える。

――――――――――
まぁそんな思想を持ってて。
今日言いたいのは、準備できるまでやらない、はみ出たことはしない、っていう態度をやめようと最近思いました、という話。

行動してから考えるなど愚の骨頂かと思っていた。だってちょっと考えればわかっただろうに前もって準備しないから取り返しの付かないぐらいの問題が信じられないくらいいっぱい起こってるじゃん。それは悪いことだと思うし、考えられる危機に対する準備は大きいものは特にできる限りしておくべき。

でも別に始めた後で間に合うものはどんどん後回しにして始めちゃえば良いと思う。というのも、実際に物事を開始すると、俄然勢いややる気が出るもの。急に現実的に考えが進んで、不足しているものや拙さを実感したり、体を整えたり新しいアンテナを張りだしたりすることが多い。その気に乗せて、欲しいものはさっさと調達すればいい。その気にならなくても、始めてしまって責任や焦りが出てくれば頑張ることはできる。
   よくある話ではあるけど、実際にやってみるとなかなか考えつかなかったようなことがある場合が多い。そこで、準備されたものとの不具合が出るよりも、その新鮮な場で初めて必要なものを素直に感じ取った方が好い結果につながりやすい。まぁそのまま忙しさに流されて、特に平常時に必要の無いものは放置される恐れもあるけど。

これもよくある話だけども、対して精力的でもない人で一つのこともうまくできない人がいる一方で、忙しい人で全部うまくこなす人がいる。というのも、大雑把に言うと、いっぱいやる方が一つだけやるよりもうまくできるからだと思うんよ。自転車ゆっくりはこげないようなもん。とにかく回し始めてしまったらいろいろ取り込む力が出てくる。
   簡単な話、竹馬に乗れる人と乗れない人で、どちらが逆上がりうまいかっつったら因果は分からなくてもとりあえず竹馬乗れた方が有利かなと思うやん。フィギュアスケートやってるハタチと自宅警備やってるハタチとでどっちが字うまいかっつったらまぁ平均してみたら前者だと思うじゃん。何でもできとる方が、他の全てのことに少なくとも悪い訳無い、と信じてると何でもとっても楽しくなる。まぁ、自分でも信じられない部分もあるので強くは勧められないけど。


そんなわけでとりあえず始めてみよう、というのが今の考え。

準備が不十分なばかりに途中で形式が変わってしまうのが芸術的でなくてどうしても気にしてしまっていたけど、今は、どうせ永久に残るものでもないし、どうせ数年後にはもっと進んだ技術に簡単に飲まれるし、やっていく中で変化していくのを見るのも面白いと思えるようになってずいぶん楽になった。昔のファイナルファンタジーとかテレビドラマとか音楽とか、低レベルですごく良い作品だし、背景に感じる時代も作品の味の一部になる。じじくせえ。

――――――――――
でここで、実装する力についてヒントになりそうな話がある。子どもです。

子どもって、100%理解して読もう、と思うと、ほんとに100%理解して読むらしい。
50m8秒台で走ると思うと、ほんとに8秒99で走る。窮地になると跳び箱も8段飛べる。これは自分の話。
しっかり勝つイメージすると、勝つ。もちろん能力に限界はあるけどさ。

子どもは、経験は少ないけど、あるいはむしろそのせいで、想像力豊か。
それだけじゃなくて、自分の想像に、現実の自分を合わせる力が半端無い。

これは単に若さゆえの能力ではなくて、ある世界観が前提としてあるのかなぁと思うんだ。子どもは、それが良いとか悪いとか、どれだけの可能性とかでものを見てない。それがそこにあるのをただしっかり自分の世界の一部として感じて、納得するまで同化するだけ。子どもにとって、世界は自分とは別の外の物ではなくて、すべて自分の感覚なんだから自分自身に他ならない。どれだけ変なものであれ、感情であれ妄想であれ、自分がその場所にその物を感覚しているという存在感ほど正しいものは無い。それを、何かの規格で思慮するのではなくて、ただ誤る術無く完全に感じることで自分を重ね合わせる。そんな理解の仕方をしているように思える。

だから、無理とか心のどこにも思いつかず、自分を理想に合わせる。これ即ち、子どもの「素直さ」と考えていいかも知らね。
まぁ、心と頭がそうなっても、実際に体がついていくのは若さゆえかも知らね★☆★

2011年6月1日水曜日

26 May myself forward.

下書きが溜まって5月は何も書いてなかったw まだ方向性が定まらないから臆病なんすね。
関東ではすっかり日が長くなったこのごろです。落ち込んだりもしたけれど私は元気なう。

5月をちょこちょこと反芻する。

◎3月に鬱と闘い、4月に立派な子どもになるという夢を研いで以来、行動に迷いが大きく減った。
◎表現すること、世界に踏み込んで変えることに引き続き興味が大きく、日常生活の改善が続く。
◯精神と肉体の関係を以前より強く信じて、笑顔の練習が続く。肉がついたと言われるまで豊満になれた。
◯肉体同士の関係にも理解が強くなり、肩、骨盤、手脚、視力、声、顔、髪まで感覚がつながった。
◎物事を只管よくみる。音や自分の精神や世界の秩序や他人の哲学を、立体を見るかのように感じるようになる。
×文章を書かないので頭が理性的にならない。論理がうまくいかない。

子ども好きな人つながりで、初めてのオフ会した。不具合により少人数で、話は真摯で幅広く、いろんな新しい人の世界を見たい思いが強まってた自分には非常に都合の好い心持ちと実績を持つ人達だった。
彼らに会った翌日には顔見知りの子どもに話しかけて別件で会う用を作り、半月ほど後には顔も知らない子どもと一緒に遊ぶ経験を初めて得、子どもと触れ合うために必要なことを山ほど思い知って、勉学や運動、相変わらず表現の向上にもやる気が上がる。

就活の時期、ビジネスやITに明け暮れる友人、惜しまれつつ収監される生命の扉。成人を越えてから漸く、「お金って必要ですかねぇ」という子どもの問いに、比較的素直な答えを出せて、感動を曲芸にせむとす。

世界を広げたいから、知らない人にも臆せず楽しく話せるようになりたい。そう思って笑顔や音楽や言語や社会性についても考えてきた。考えるだけで行動していなかった人は、行動してからの成長は速くても、しかし幼い頃からの土台の無さが表れたか、失態が晒されることも多く、綿密でワイルドな実力をさらに求める。


どうせうまいこと描けないなら、幾分日記的に描いてみてもいい。スランプのときは、とにかく描いて描いて描きまくる、それでも描けなかったら暫く描くのをやめてみる★☆★

2011年4月30日土曜日

25 寝る子は育つ。

考えることはいろいろありますが書くことが難しく、一回遅れると叱られるのが怖くてさらに後回しにしてしまう。よくある。遅れてもなければ叱られもしないけどさ。
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しばらく考えてたんだけど、表現することが大事だなと思うんす。積極的な行動には問題が伴う可能性が大きくて危険だけど、勿論いいところもあるってことで。例によって、比較的自分なりの論理的に。


一般的な話。

・表現することで、明確に分かるようになる。自分で何を想像しているのか見える。
・表現することで、そこまで考えていたことは稀少価値が無くなる。
・表現することで、そこまでの思考が保存されて、一時記憶の負担が減って思考が楽になる。
⇒で、自然と新しいものが求められる。生まれやすくなる。
・あるいは表現に齟齬がある中で、偶然よいものができるかも知れない。逆も然り。

と聞いて、何を例として想像するか知らないけど、これは様々な規模で言えること。
・例えば毎日日記やブログ書く人は、今日が何だったのか、何があったのか判明につかめる。
・同じことを書いてもつまらない、誰も褒めない。
・昨日のことは忘れるかのように意識の深いところに土台として置き、違うことに取り組む。
⇒で、自然と新しいものが求められる。生まれやすくなる。

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次の視点。極端に一般性を失う。宗教じみた話。ちなみに私は宗教と科学の差をよく分かってない。これには説明が有るけどそのうち書く。

2011年4月20日水曜日

24 じかんのびちぢみの10さい

18日から仙台市で給食が再開したらしい。向陽も他の子どもも元気にごはんを食べてください。僕は給食が好きだったけど中学から昼ごはんを食べない習慣ができた。体重減った。好きなメニューはわかめごはん。

書きたいことはいろいろあるけど時間が無いしイマイチまとまらない。そうだ、その話にしよう。



一週間くらい責任を逃れて寝ていた。入院でもしてない限り、若いうちにそんな状態は意識的に作らないと無いと言ってもいい。むしろ若いうちだから意識的に作れるのかも知れない。
   何も憂えることが無くて満たされている状態というのは有り難く、普段は感じない普遍的な幸せを感じる。何かに追われていても、逆に何かに意欲的でも成り難い。力を入れることよりも力を抜くことの方が難しい場合があるのに似ている。既にそこに有る力を無くすには、自分のしていること、自分の身体を理解しないといけない、でも基本的な部位においては必ずできるはずだから、自分の正確な理解力や統率力が問われる。

コミュニケーションをほどほどに、夜はあまり晩過ぎず寝て、自然と昼にゆったり起きていると、何日かすると壮大な夢を見る。普段も見てるものかも知れないけど、比較的強烈に見ることができるようになる。長く広くゆったりと味わえる、起きてすぐ賢者になって忘れる夢とは違う。
   普段から夢に親しんでいる人なら今さらと思うかも知れないけど、夢に親しんでいない人の方が圧倒的に多いだろう。こんなにも面白くて夢があるものがいつでも自分の中に存在することをすっかり忘れている大人はきっと多い。陳腐な話だけど、夢は潜在意識をとてもよく表してくれる。

   夢は人によっていろいろだろうけど、自分のゆったりしてる時の夢は、子どもの頃の友達が今の友達と混ざって出てきたり、小学校の校舎や一回だけ遊びにいった野原なんかがよく出てくる。時には知らない人だけど仲の良い設定の友達が出てきて、雨の日の暗い林を横に、どこへとなく歩く風景に混ざっていたりするんだが、自分はそこにやっぱり果てしない幸せを感じていた。

何も憂えることの無いことは多くの人にとって幸せでありそう。それがどういう風に発展するわけでもなく、成長することもなく、ただ永久にそのままであればいい、満たされている状態。それを直感的に知ってるのは子どもであるような気がする。


子どもは、一つだけ願いが叶うならどうするかと訊くと、大体は空を飛びたいとか、大金持ちになって好きなものを好きなだけうんたらとか言う。自分もそうだった。ただ空を飛べたら100年間飛び続けても良いと思ってる。大人は空を見てもだから何だとすら思わない人が多い。子どもは空の綺麗さを分かってる。自由に、ひたすら世界を客観する楽しさを分かってる。感性が良ければ良いほど多くのものは美しく見える。

世界を、何か抽象的な目や思想的な目で狭く見ると、いくつかの違う景色も同じ様に見える。その目は大事だしある程度楽しい。でも同じに見えれば特別さは減って失う楽しみもある。二者択一的では無くて、両方の目を持つことはできると思うから、楽しみ倒すことはできると思うけど、大人はそういう狭い目しか持ってない人が多い。

それに比べて子どもは、感性が豊か。感性のためなら何も考えていない方がまだ良いと思えるほど。そして、それぞれが違う特別な時間を生きている子どもは、時間が長い。もっと言うと、時間を知らない子どもには、時間が無い。自分の世界が強い子どもにもまた、時間が無い。何かに集中しているときには、その人には時間が無くなる。気づくと時間が経っててかえって速いかも知れないけど、速さじゃなくて、時間そのものを感じているかどうかの話。時間をすっかり忘れるということは大人になってからでも落ち着けばできることだけど、子どもは基本的にそういう状態だろうと思う。

速いか遅いかに関わらず、特別でかけがえのないものとして生きられた時間は、充実感が持たれる。何かを在らしめる意味が有るから。そんなことに最近気がついた。要するに時間を忘れるくらい広く世界を自分のものとして感じて、過ごした時間は活き活きとした特別なものとして一緒に生きていくようにしようと思う。イマイチ支離滅裂申し訳無い。画像欲しいな★☆★

2011年4月14日木曜日

23 大人は知らない僕らのひまわりの唄

気づくと今年始まって100日経っていたこの頃、大!天才てれびくんが地震にも負けずとうとう新年度をスタートした。どうやら視聴者参加型ということで戦士が極端に少ないとかなんとか。去年になって見始めた自分は天てれの流れは詳しく知らないけど、今までも変更を恐れず番組を作ってきた天てれなので、教育のために時代を読んでのことなのかも知れない。この苦しみをよく噛み締めておこう。
   もう少し素材が収集できれば小川向陽の人気を何とかして上げて、東日本と全俺を盛り上げてもらおうと思ってる。それなら急がないといけないけど。
天てれフォトブックを読んで改めて考えたんだけど、小川向陽はどうやら幾分他の戦士からすれば疎ましい存在らしい。話が長いとか前に出過ぎとか言われてる。でも20年以上生きた自分からしてみれば、向陽は実にちょうどいい。人を楽しませるレベルを非常によくわかっていて、むしろ芸能人としては他の戦士は控えめ過ぎると思える。番組の中でも外でも向陽は大人に人気があるし、オッサンぽいというのが戦士の中での共通見解であることも考えれば、普通の子どもはちょっとついていけないんだろう。そのギャップがたまらない。
   加えて元気いっぱいでよく通る完全な高音ハスキー、だけどちょっと幼い声も、子どもにはうるさいんだろう。近年、無思慮のせいで自分自身の嗜好を勘違いする大人が多いので、女の子みたいな男の子がちやほやされる風潮があるけど、そうじゃない。本当に愛でたいのは元気な男の子に違い無い。

2011年4月8日金曜日

22 つうつうつうつうゆう

あいうえお。まとまったことを書く予定は無いけど一応勝手な論の続き。レベルの低過ぎる鬱についてはしらん。

そもそも鬱になるには沢山の可能性がありそう。一つの結果が起こるための原因は一つとは限らない。むしろほぼ複数しか無いだろうと考えてる。複数の原因を見るという目は大切かどうかはともかく、とても大事だと思う。この考え方を持ってない人はめちゃくちゃ多いし、自分も去年くらいまではやたら一つだけの原因を探す癖があって今もちょっと割り切れてない。
   ということで鬱にはいろいろな経緯があるので、いろいろなことが解消の原因になり得るということにしておく。

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やっぱり鬱の大きな特徴は、苦しみを繰り返すことしか想像できないことだろう。この先にすごく楽しいことがある、ということが全然想像できてないと思うよ。

   毎日同じこと、辛いことの繰り返し。朝起きる、でかける、帰る、寝る…。学校、受験、就職、仕事…日々責任に負われて、辛い仕事をこなしていかないと生きていけず、あげく老化する。特に楽しみもない。あぁ、あの頃は良かったなぁ。
   普通なら楽しいことでさえ何か否定的に捉えてしまう思考回路がある。どんなに楽しくても、むしろ楽しければ楽しいほど、それが終わることが悲しい、意味が無いことが虚しい、しなければならないことは消えない、かつての楽しみには敵わない、ということが即座に見えて、よく楽しまないまま悲しみへ気持ちを流すこともある。

この二つの考え方は互いに原因と結果になる。つまり悪いループを生む。
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自分の複数の経験から言えば、問題の起こりは精神的な部分ではなくて、身体的に同じような生活を繰り返していたことが大きいと思う。身体は精神に影響を及ぼすのは自然なこと。例えば長期休暇で家から出ないで独りきり、逆に毎日外に出っぱなしでゆっくり独りになる時間が無い。外の空気を吸わない、移動しない、運動しない、食べない寝ない。
   →環境的なループにも、精神的に悪いループに結び付けてしまう場合もあれば、良いループに結びつけられる場合もある。結局考え方が重要なんだけども、少なくとも何事も広く循環しないと、視野が狭くなって楽しいと感じにくくなるということ。

繰り返しの中でも鬱になりやすい状況に昼夜逆転がある。夕方起きて昼近くに寝ると、一日中何もできないで終わる気がしてしまう。
   →でもこれは夜を活動時間外、無為な時間と思い込んで、いくぶん偏って否定的に捉えているからで、メカニズム的なこととは遠いように思える。日光を浴びないと肉体的に不健康とはいえ、実際に積極的に活動している内容は大したことが無いことが多い。
   逆に言えば、意識してない人が大半だけども、昼間起きる、出かけるということは、それだけで沢山の情報と記憶を含んでいる。問題を直接解決する方法にはならないけど、気分は晴れることが多い。

絶対的な生きる価値を持っている人ほどかえって鬱になりやすいんじゃないかと思う。絶対的な愛があって、それがもう叶わないと思ってしまったとき、その人には自分や未来に希望が無い。これは対処に困る。
   →自分の解決策は、そうは言っても未来には何があるか分からん、と考えること。そもそも鬱になるほど強い思想を持つというのはちょっと凄いことで、実は多くの情報を慮って気配りをして、自分なりの処理を行ってる結果だろうと思う。そうであれば、その想像力、思考力を使ってもう少し現実の幅を広げて考えてみると、未来には今まで以上の価値があって全然おかしくないことが想像できるはず。極端に言えば過去の幸せを再生、保存できる何かしらの技術もできることが想像できておかしくない。

簡単に言えば、まだ見てもない未来を自分の頭の中で決めつけてその全てに悪い解釈してるのが気分悪いのだからこの解決策は慣れればけっこう有効。なんで決めつけられるかって言ったらそれはきっと論理的、絶対的に、狭い視野だけで考えるからだろうな。意識で分かることは沢山あるけど、無意識を侮る理由には全然ならない。価値を沢山持ってる人ほど活発に生きていけるものなのかな。
   気分が晴れれば問題の解決になることも充分起こり得ることを認識した方がきっと良い。気分が良いと純粋にものを考えられなくなる恐れがあるのは分かるけど、なってみると意外とそうでもない。良い状態と悪い状態の比較ができるのは利点の一つ。気分が良い時と悪い時でどちらが上手に思考することができるかは瞭然。

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もっと簡単なこと言えば、規則正しく朝起きて出かけて誰かと会って早く帰ってテレビでも見て、あと日記でも書いて一日を整理して特別なものにすると概ね良好。正直、鬱は悪じゃないと思うのでそのまま悩んでてくれてもけっこう助かるんだけどね。単に鬱の気分が嫌いなら歌でも歌えばいいよ。何にせよ鬱病は数カ月で自然治癒するという医学的なデータがあるのでせいぜい悩めばきっと日本人らしい良い経験ができたと思えるようになるよ。


元気に生活するためとはいえ思想的に諦めを持つと、そこで子どもは終わるように思える。かと言って苦しんで悩んでも、それは諦観を含んでいるから子どもではない。本気で永久に死にたくない、これがやりたいと思ってないと子どもじゃなかろう、と思う。
もう鬱でもないのに鬱のこと考えるの疲れた。日々に結びつけて書くのが一番★☆★

2011年4月4日月曜日

21 天災の戦死と生きるの記

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警察庁は3日、2010年の自殺者統計を発表した。日本の自殺者の数は、前年から3.5%減った3万1690人だったが、13年連続で3万人を超えた。これは、1日に87人が自殺している計算になる。遺書などから推測した自殺原因は、半数が健康を苦にしたもので、約4500件が家庭の問題が原因となっている。http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2788589/6906889

2009年の自殺者数は2年ぶりの増加で前年比596人増の3万2,845人(男性:641人増の2万3,472人、女性:45人減の9,373人)。12年連続で3万人を超えた。40~60歳代男性の自殺が多く、自殺者全体の40.8%を占めた。職業別では「無職」が57.0%で最も多かった。(時事通信)

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だそうだよ。大地震で、大津波で、放射線被曝で、寒さやストレスやインフルエンザで亡くなる人があまりにも大勢いるのに、それでも、とりあえず今のところは、一年で自殺する人の方が多いということを思うと、勿論この震災を軽んじるつもりは全然無いけど、こんな緊急時でもなければ日本の文化や制度を改正することはよっぽど急務のような気がされていい。まぁそのためにその他もろもろの政策をしてるんだろうけど。

鬱って病気がブームじゃん。「鬱は歴とした病気なので、医師の治療が必要です。」「心が弱い、心の風邪、という認識は危険である。」「しっかりした認識と周囲のケアが重要。」と、言われています。

僕は病院で診察を受けたわけじゃないので説得力や自信に欠けるけど、きっと受診したら鬱症と診断されただろうと思う情態になったことがある。物事を否定的に捉えて、人生の意味とかを考えては明るい答えが出なくて悲しい気持ちになっていた。涙もろく、テレビを見て、子どもを見て、ギャグマンガを見て、景色を見て、朝起きて泣いていた。説得力出てきたかしら。

以下、ぼくの管見が鬱症について分かったようなことを言う。結論は…「鬱は病気ではない。」まぁ病気でもいいけど、そう特別なことではない。だってみんな鬱だし。

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2011年3月29日火曜日

20 プラトニックタイム

少し前、休日になると忍たまがやらないので鬱になっていた時期がありました。
最近は同様に天てれがやらない休日は鬱です。
そうでなくても三月は津波の様な卒業シーズンで鬱がいくつも押し寄せる。


子どもが好きなのは僕だけじゃなくて昔からある趣向であるのに加えて、特に最近の世間の趣向でもあると思う。平成があまりにも平和で、便利で、人間の生物的、文化的レベルが非常に高まってるから。それに、子どもの頃が極上に幸せだったのに大人になるにつれて辛いことが増える一方だった人が今の20代に多いのも今の社会の諸事象の大きな原因だと思う。

子どもを好きになる、特に生の子どもを好きになるってのは、ある程度複雑な嗜好だとは思う。単に見た目や声や甘える性格とか弱々しさがかわいいとかいう二次元的な好みだけだったらあまり好きにはなりきれなくて、大きな見識や深い情があって、少なからず記憶や背景や心情や友情や拙さ、切なさを見ているから愛着が生まれるんだろうと思う。


そもそも僕が子ども、どちらかと言うと男の子を好きになったのは、自分が子どもの頃から。でもその時はまだ周りにいる同年代と自分自身が好きだったのでそんなにおかしなことではなくて、自分だけ時間をより大きく纏う様になるとだんだん年下が好きになったというだけのこと。小学校4年生の時には、人間はこの小学4年生こそが最も美しい時期だと強く思っていたのをよく憶えているし、初恋もその年だったと思う。中学2年生の時には、一日一日がめちゃくちゃ楽しくて、同じくらい悲しかった。中学3年生からは心の奥で諦めていた。高校生の頃は懐古に始まり懐古に終わり、今思うと自分では殆ど恋をせず、中学生同士の明るみばかり見ていた。卒業する頃には子どもを見ては泣くようになっていて、今では完全に子どもと自分の子ども時代を愛してる。

現実の子どもが好きになって気づいたことも沢山ある。絵に描いた子どもとは情報量の比が歴然で、絵はあまり好きでもなくなることが多くなる。コンテンツが終わってもどこかでまた会えるという希望が大きい。でもいったん終わったときの悲しみはめちゃくちゃ大きいし、永遠性の無さは不安になる。エロゲをクリアすると鬱になると聞いたときうまく想像できなかったけど、今は痛いほど分かる。

あの時はああ思った感じた、でも今は思い出せないほど微塵も思わない、ということはとてもよくある。ぼくはそれを子どもの頃からよく知ってるつもりだったから、あまり熱くならず物事をますますよく考えるようになっていた分確実な物を探して決断力に欠けて、感情に起伏も少なくて好き嫌いが殆ど無く、消極的で無駄なことを嫌う上にみんな無駄に見えて、なかなか損してたというか、得られていないものが沢山あるだろうと思う。逆に自分を強くできたり思考が成長したことは良いことだとは思ってる。考えることも大事だし、考えないで行動することも大事だと思うから、どちらが良いとはまだ結論出せてないんだけど、少なくとも先人の教育でもっと断然良い方向に生きることはできる余地はかなりあると思う。


そんな自分だけど、子どもが好きなのは子どもからのことだし、様々な思想を経た今あらためて愛してるわけで、きっと死ぬまで子どもに従事するだろうと思ってる。書いてたらまだ盲目的なところがあるような気もしてきたけど、さしあたり今は、何をしていても最終的な目標はきっといつもそのあたりなんじゃないかなぁと思っている。

自分の生を生きる目的は、立派な子どもになること。これができなかったら死ぬ。これはアイデアとしては誇れるぼくの大きな夢。大人として死を生きる(19参照)か、永久に子どもとして本当のこの世界のゴールに到達するかのどちらか。

天てれの画像や動画を探しては鬱と闘い抜いた引き籠りの3日間でした★☆★

2011年3月27日日曜日

19 HEARTS WILL RISE AGAIN

近況;停電の度にネット不通→頭悪い人が配線変える→直すとキレる('A`)


久しぶりに意識的に睡眠をとる。ここ数年不規則的に眠くていつの間にか寝てた、という形でしか殆ど寝てない。
  起きていたときの記憶が駆け巡ってくっついて不思議で魅惑的な世界が現れる。この日は小川向陽のことを起きてからずーっと考えてた。布団の中で、体を丸めて、今日の虚しさを思い、明日に怯えて、ひたすら助けて助けてと呟いてた。そこで思い出した。 もっと小さい頃もそうだった。 その日の記憶や夢を見るのが宇宙にいる心地で疲れてる心身にはあまりにも安らいで楽しくて幸せで、現実が死ぬほど嫌になる。
  普段ぼくは助けてってあんまり言わないんだけど。もう一つ珍しいことに、助けての次には死にたいと呟くけど、これは昔は言わなかったような気がする。別に悲観してるわけではなくて、これ以上新しい世界を作らないでこの夢を永久に見ていたい、現実の存在感を捨てて幻想の世界に没入したい、と思う。


そもそも自分はこの世界や他人を客観するのが幼児期から好きで、世界を見る自分が一人しかいないことや世界に自分が介入してしまうことが嫌だった。死んでても生きてても何かをじっくり客観することが根本的に好きなんだと思う。楽しいし。
  昔からとても消極的でした。必要が無いことはとことんやりたくなかったからで、それは自分の勝手のせいで人に迷惑をかけたくなかったから。マイナスになることはとことんしない主義を生まれた時に得たみたいだ。どちらが先か、非常に疑り深くもあるのでなかなか行動をしない。期待値がプラスだとしてもマイナス面は必ず見るし、犠牲を出して得を得ることもよしとしなかった。
  でも逆に必要に迫られて自分が動くときは実は嬉しかった。自分の意思を表さないような自然な物腰が深く根付いていて、人と一言も話すことすらできない時期もあったけど、どうしても自分を表現しないといけない時、つまり何者かに強制的にやむを得ずやらされる時、やらないとむしろ責任を問われる時が来ると、それはそれで貴重な機会を喜んでいた。女子やマゾのような受け手の心理はほぼこれで説明できると思っている。
  特に責任を負うことが大きなマイナス要因なのは、自分の世界が膨大で大事に思ってるから、他人のことも同等以上に大事だと思っていて、他人の中の不快は自分にはどうしようもないし、解消したところで存在した事実や影響が消えるわけではないという思想があるのが理由の一つで、逆に自分はわりと痛い目にあっても構わないし、そもそも痛点が違うとこにあるしけっこう深いから他人が痛がるのに比べれば全然痛がらない。

さて関連付けは適当にして。自殺する人も似た思いがあるだろうと思う。楽になりたい、現実を捨てたい、自分が死んでも他人に迷惑はかからない。どこまで考えてるかは知らん。ぼくはとりわけ元々責任も無いし期待されてないし愛してくれてる人も少ない方だからいいものの、愛されてる人は罪悪感があって辛いだろうなぁ。


さて、僕は死を生きることを今のところ人生の目標にしているんだけど、つまりそういう意味での死であって、暗く悲しいものではない。死ぬとどうなるのかはっきりしたことは宗教しか知らないことになってるけど、ぼくはわりと夢見がち。少なくとも苦しいものでは一切無いかなぁと思ってる。それってそれだけで素晴らしい。一切苦しくないなら方向としてはゼロか楽しいかしか無い。死がそんなもの、つまり極楽だとして、死んでるかのような気持ちで、でも実際に生きるっていうのがこの命の目標ということです。
  もう少し物理的なことを言う。要するに死んでるかのように飲まず食わず、眠らず起きずで生活してもいい。これはできないとは全く思ってない。というのは単純に他にできている人がいるからというだけだけど、ぼくにとっては十分な根拠になる。こと食べないことについては、何かをするんじゃなくて何もしなければできるんだからとても簡単。


さて、眠れないままの明け方お布団の中で考えた。こうやって助けて助けてと思ってるうちはきっと子どもでいられる。あまり死にたいと思ってたらそれは子どもじゃないような気もする。闇が好きな僕の本性にとって向陽は眩し過ぎるほんと生きる希望★☆★

2011年3月23日水曜日

18 マルい頭の自転軸をずらして

  小学生の算数の問題  
数学科を卒業した若人Yさんに軽い気持ちで出題したところ、思いも寄らない議論になりました。ちなみに普段数学は圧倒的に負けますが算数はぼくの方が圧倒的に速く正しく解けます(`-ω-´  )

次の□にあてはまる数を求めなさい。
『半径4cmの円Aの内側を半径1cmの円Bが一周します。すべらずに転がって元の位置に戻るとき、円B自身は□回転します。』


考えてね。ちょっとむずいよ。


  ぼくがこれ一人で考えたとき、一瞬である答えが思い浮かんで、よく考えたけどやっぱり正しいと思った。その答えは4。円周の比4:1だから。

で解答を見ると、違う。うぇwなんでww

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2011年3月21日月曜日

17 東北関東大震災発生から、10日感。

  地震ありましたね。僕の人生で最も大きな地震で、本気で死を覚悟した時であり、世界規模で大変な事件であり、あまりにも情報量が大きい。死ぬほど興味深い大事件でした。昨晩は震災後たぶん初めて埼玉でもそれとわかる余震が無く、今、山は越えて後片付けが始まっているかのような雰囲気が始まっています…。

  僕が3月11日の午後2時50分頃、トイレに入るところで、地震があと10秒遅かったら、うんちの途中でした。いろんな状況の人がいたと思います。電話、痴話喧嘩、スケート、重労働…考えつく状況がほぼ全部、その瞬間に地震に持ってかれたでしょうね。カンニングも芸能も都知事選も新幹線開通も幼児番組すら全部カット。
  みんなの意識が一瞬にして一つに集まった時だったと思います。どれほどの大惨事でも、自分に関係無いと思う人は少なからずいるでしょうけど、今回は地震ですから、礼讃の最中にいる大地がおおいに揺れて、みんながそれを同時に自分で体験した当事者だから、そりゃ意識させられる上に、自分の興奮もさることながら、遠くにいる沢山の人が同じことを体験してるんだと分かると何か嬉しくなって共有したくなる。あぁ素晴らしい。
  これほどみんなの意識が集中するときは、自然災害が最高だと思っています。大雨が降ったとき、雪が真っ白に積もったとき、この世界はみんな同じ空の下で、何だか小さなおもちゃ箱みたいに感じられるなぁ、なんて思うことがあるのと一緒。今回は下が揺れた。ただただ地面がちょっとの時間揺れただけ。それでみんな大騒ぎ。

  震度5弱の地域にいた僕が緊急で取った行動は、無駄な行動を慎むことでした。あとは災害に注意して、然し明るく平常通りに、と。大地震の30分後、バイトに行く前に辞世にもできる個人的な所感を一つ、のつもりが、衝動的に世間に足りてない情報を一つ子どもが世界のすべてという思いを一つつぶやいた。面白いことに、ぜっっっっったいにツイッターやケータイがパニックになっていることは考えれば誰にも明らかで、冷静に考えた場合、それが他人の命を奪う行動であることは理解するのに難しくないはずだけども、まぁ行動してから考える生き方は批難しないけども、もっともっと殺さずに済んだ命はあったでしょうね。
  僕が所属する総勢100人の誇り高い応援団体も偉い人2名から即座に安全確認のメールを返せ、とのメーリスが回ってきました。安全ではなかろうと思ったし連絡返さなかった場合うちまで助けにきてくれんのかと思ったけど、早く「無事」と言わないとかえってメールが増えるので顔を真っ赤にして人殺しし返しました。数日間はボランティアに行くとか言い出すんじゃないかと噴いた汗が凍っていましたがそこまで男気は無かったみたい。

  で家出て、もしかしたら子どもが大変な目に遭ってるかもわからんバイトに行こうとして、自分の命で助かる子どもが半人でも0.1人でもいるならパンクドチャリの1時間や2時間こいでまだ知らない道を走って到着してみれば何事も無く営業休止で仕事も無かったけど、僕が驚いたことがある。地震一時間後、徒歩もチャリも自動車もみんなケータイ見ながら運行してたことだ。ぼくは職場に電話も入れずに我慢して久しぶりの運動に勤しむ中、普段と何ら変わらず左を歩き右を走る日本の人々にファンタジーを感じた。
  たしかに、僕は子どもの時は人一倍大人しくて音楽や話を聴くのが好きでしたし世界を客観するところもあったからみんながうるさかったら静かにしたし言いつけは守る癖はあったし、意見は慎んで何も言わずに会議を終えて叱られたことも多々ある。と、は、言ってもすなぁ、あの時間に地震が起こって、子どもがワーワー騒いで、静かにしなさい!って先生が怒鳴って子ども(´・ω・)ショボーンの教室が現実にいっぱいあっただろうということと、その先生は子どもの安全を第一に考えて然る可き時に叱ったのだろうということはみんな想像できると思うんだけど、地震が起こって、一人が10も20もツイートしたとこまでは小学生と全く同じで、しかも止める力も無くて、声を聞かれず人々が死んでいった大人の世界は圧倒的に小学生未満の死亡フラグ立ちまくりお気楽キャラの行動に過ぎたと思うよ。

  僕は比較的論理的な思考を持っていると自分で思っています。で、普段交通ルールとかマナーを守らない人は、もしかしたらちょいと考えがあってのことで、実際何が大事なのかはわかっていて緊急時にはしっかり振る舞えるのかも知れない、なんてことを考えていました。でも、人によって何を大事にしているのかは違うし、緊急時のデータを取るのは難しいと思っていたのよ。それが今回、自分の命、他人の命が直接的に関わる大事件が起こりました。これは冷静に考えれば9割9分の人が緊急と考えることだと思う。やったぁ!つまり、普通の人間は冷静に考えた場合、こういう状況では今消えゆく人の命を守ることを第一の目的としてフル稼働するべきだと考える。それを認識するところから始まり、そのために何をするべきかを考え、実際何ができるかまでの一連の能力の良し悪しが、普段のように他の思念に邪魔されること無く、はっきり発揮される!と思ったの。そして、実際に人間が取った行動は、いつも行っているマナーはいつも通り、おしゃべりはいつもの10倍!僕は大変有り難い機会に命がけで嬉しいことを学んだとしみじみ思っています。こういう時に本性が現れるものなのだなぁとじっくり味わっています。

  とはいえ世界では日本のマナーの良さとやらが感動を呼び起こしているし、日本人もそれを聞いて浮かれているみたいじゃあないですか。僕はそのニュースを聴く度に胸がうるうるします。僕が家族と喧嘩する時によく感じるその感覚は、どうしてそんなにも悲しい人なんだろう、という思いから来てるんだとよくわかる。たしかに列作ったり道あけたりよくできてるとは思うけど、惰性や自尊心に動かされて思いやりに欠けている口程に及ばない日本人などを見て驚愕してオレもやるぞHAHAなんて言ってる人間が世界の大部分を支配しているなんて大震災ぞ起こると思わざる得ない。その所感についてはここに記事書いてリンクしとこ(べんりー!)。憶えてたら。
  だけど、時間が少し経って冷静になれば日本の技術、知識、精神が効果的に集結して整列して人を救出、事故を防止、予防する様や、空前の日本ブームや礼儀を尽くしたこともあるだろうけど世界中からこんな小さな国が注目されて支援されることはあまりにも芸術的で素直に感動してそれもまた涙が出そうになる。治安の良い国世界一。1週間で2万人救出。自衛隊は救助した人の方が多い世界一の軍隊。ほら平和主義の人は憲法9条がどうとかもっぺん言ってみればどうですか?ぼくは昔から日本ほど良い国はきっと無いと本気で思っています。 まー、もっと時間が経てば気も緩むでしょうけどね。

  ぼく平成生まれ。でも平成になってからの22年間はあまりにも平和過ぎたと認識してるのよ。悪いことじゃないかも知れんけど、ボケるのは良くなし。今回の規模は阪神淡路大震災の100倍とか言われてるけど、学べたことは計り知れず、その時の世界の混乱と言ったら本当にどんな芸術作品も全くもって比にならなかったと言える。今は勿論のこと、これから数十年先やこれを経験した人々がどうやって成長していくのか、世界中どうなるのか、技術やエネルギー、自然環境の認識や、政治、人付き合い、育児…バカ真面目になるか、バカになるか、心遣いと思いやりか、大変興味深く慎んで見物させていただきます。僕は世界の客観が幼児期から趣味であり生き方だったのであります。

  子どもの素晴らしさと言ったら相変わらず例を見ない。大地震直後、野球だのサッカーだの意味の無いダッシュだのを続行して笑顔をまき散らして遊んでいた話。寒くて死亡する年寄りもいる避難所で、雪だるまを作って仲良く汗をかく子どもの話。普段は災害時の懐中電灯のように売れて一度も見かけたことの無かった桃屋の辛そうで辛くない少し辛いラー油が沢山買えるほどオイルショックさながらの買い占めジレンマゲームのブームが急再燃する中、子どもはみんなそろって被災地の人たちが少しでも使えるようにと10円だのお菓子だのを我慢したり寄付したりしていた話。
  不謹慎だ不謹慎だと騒いでツイッターや情報の場を走り回っていたごく大勢の人たちは謹慎中にわざわざご苦労様でした。それに抗議をして被災者を元気づけて明るい日本のために負けじと大きな声を張り上げジレンマゲーム!していた人たちにもちゃんと笑わせてもらいました。とても大人らしい立派な振る舞いだったと思います。ありがとうございません。

  避難所で子どもがゲームやってる映像を見たときには、やっぱり世界はゲームだなぁと思うしか無かった。


  口程には批難こそすれ、こういう人たちが考えるより先に行動して出世して社会を作ってるんだろうとはっきり思っている。死を怖がるのも、人を殺すのも、死んで悲しむのも、愛するのも、救助するのも、また再建しますのも、そういう恋わしてはつくって壊してはつくってを繰り返すのは、ホントは落ち着いて世界を眺めていれば無くていいことだと思うんだけど、そんな僕みたいな人よりもよっぽど面白いんでしょうね。そして世界が上に高く高く進んでいくんだと思ってる。だからますます下に深く深く地に油を絶やさない僕みたいな死を生きる人もいるのだなあ。死を生きるのは僕の今の究極の目標。

  …しかしまー、歴史的大事件が続きますな。面白いことは望んでいる人のところに来るという僕の根拠不明の信条が強固になる今日この頃でございます。

  これだけ人の気持ちが揺れて液状化して地震厨が湧き出る中、僕は波に乗ってデマ一つ流せなかったつまらない人間であることがひとつ深い悲しみとして粘着しそうである。さしずめ細かいことはACに任せて、今日はすごく思ってることいっぱいうまく言葉にできたように思ってるからうれしー。また命あったらノシ★☆★

2011年3月11日金曜日

16 始めに無限の斉一性ありき。

子どもの頃からの悩みが沢山ある。一つ。

今曲を作ってるんだけど。かなり前から作ってるんだけども。
例えば一つのメロディがある。それに合うコードは腐るほどある。メロディをひとつのコードでしか使わないのはもったいない。とはいっても全部のコード使うことはできない。そうじゃなくても、リズムや拍子や音色や装飾を変えればいくらでも綺麗な音楽ができる。

と考えればすぐわかることだけど、メロディ自体もバラバラにできる。はずなのに、そもそもメロディはどうやって生まれたのかといえば、それはもうふと浮かんできたり。ある程度理論的に考えてのちはやっぱり感覚的に。

と考えればすぐわかることだけど、和声や音色もあれこれ考えたとしても最終的には感覚的な良し悪しの判断を通って一つに決まる。であれば、もっと感覚を研ぎ澄ませてよく聴くことが大事なんだろう。

自分の矛盾らしきものを突き詰めて破壊的に考えることでかえってそれを補強できる。それは意外と他の人はやらないことえっへん。


…まぁそういうことだけどもし。
自分の感覚がものを生み出したのは確かだとして、それに変化を与えたり、違う形式でも表現してみたら駄目だとは思えないし、そもそも感覚的にふと思い浮かんだからといってそれが他のものを偽物と呼ぶ資格があるわけではない。
全部が本物。この思想を持ってる人も実践できる人もまた少ない。何しても全部理解する、あるいは非難しない、受け入れるというような人は殆どいない。

じゃあ何が自分の創作や行動を一つに決めるのかと悩むわけだけども、全部本物、全部同値なのだとすれば、逆にどれをとっても劣ることは無くて、結局自分がどう思うかが決めることになる。


なるほど、じゃあどこまでも自分の感覚に従えばよい…ということか、いまいち納得できないんだけど。よほど感性を強くしないといかんな。

その点理性の弱い人は羨ましい。楽しいだろうし、人気もあるし。でも自分がやめられないのにも簡単な理由がある★☆★

2011年3月8日火曜日

15 Characters Like Dots

海外で頑張るぼくの友達をみわたして、国内で働くことを考えたり、働かないことを考えたりした。初めて見たスティッチが最終回だった。

 教育の話。あるいは効率の話。 

たとえばぼくは家事をさせてもらえてない。危ないし自分でやる方が早いだろうしね。
お家でお仕事や社会の話をしてもらっていない。くだらん自慢話や愚痴が約10割。

それで今になってもできないことや知らないことが山のようにある。それが原因でぼくは人との関わりが薄くて、現実で何かを成す能力に欠けて、社会性だけでなく発想や性格にも大きく影響が出ているのは誰が見てもよくわかるくらいには甚だしい。そのことについて僕に教育を受けさせる義務を有する人々には責任を問われる、つまり自業自得だと。

まぁそれほど一般的な家庭ではないだろうと思うけども、少なからずそういう面がある家庭は多いだろうとも思う。核家族が増えて人間味に薄れてはなおさら。


ぼくはバイト中や所属する場所でお仕事がある場合、とにかく振り分けて自分がやらないように頑張って考える。いくら教える手間があったって、二人で手分けする方が早いに決まってるし、次回から自分が楽できることを考えれば、あるいはその人の全体的なレベルアップになると思えば、迷わず教える手間を取る。それをしないのは俗に言う頭の悪い人のすることだと思うくらい自然に感じる。

家庭でも次世代に知識を伝達しないのは、仕事を教えないのと同じだと思ってて、こいつに言ってもどうせわからんと思うことも、何度も話していれば登場人物や場の雰囲気が一つずつ伝わるもので、もっと重要なことは、一度しっかり伝えないことにはほぼ全く伝わらないだけでなくて好奇心や積極性を矯めることになりかねないということだと思うのよ。


どうして頭の悪い人と言われることになるかと言えば、きっと、要するに教え方が下手くそだったり、伝達する作業が何らかで必要以上にめんどくさいと思われているからじゃないかと思う。ぼくはむしろ教えるということについてはとても面白いと感じているので何とも無いものの、意思疎通するための能力に欠けると、、まーそりゃ外部から得るものも渡すものも減るのは当たり前だよな。ぼくが自分である程度かためた表現力は、僕を教育した環境がよくわからないものだったからだろうと思ってるので感謝するけども、然れば問題は続くだろうなぁ。

伝えるためにはよくわかってないといけない。それ以前に知る姿勢があるといい。それが無いなら闇雲に情報をばら撒くのも手だったのかも知れないがもう遅い★☆★

2011年3月7日月曜日

14 もののありと、おわり。

思いつくことはあるのだけれども忘れることも多々あり。というのも考えることが多過ぎて留めておけないのが大きな理由。うまい考えが見つかるのはえてして普段とは違う状況なのでなおさら。

さて。まずは共有できる内容じゃないと他にとっては意味が無い。
意味があるって言葉の意味は、そこに意、分かりやすく言うと何かを考えて行おうとする意思や生き物らしい感情があって何か趣きや方向性が感じられるということだと思う。そして、意味とは何かを在らしめる性質がある。つまり、人の意がないと、そこにそれは存在していないのと同じだ、という思想をこの言葉によって植えつけられているということに最近気がついた。まぁ言葉が先か思想が先かといえば思想だけども、その言葉を意の無いうちから使っている我々からすれば言葉が先。
でまーもっとわかりやすく言えば、「〜しても意味無い」「〜にはどういう意味が」とか言うとき、まずその何かをすることで何かが存在し得る、生まれるってのはわかれ。次に意識の話だけど、意味があるとか無いとかと言った場合、それは客観的というか絶対的な話ではなくて、ある思想の中で、誰かがそう思うだけで、つまり考える意識が必要でしょ。そんなわけで、共有、共存できないと他にとって意味が無いというのは意味の無いトートロジーな命題、つまり正しいと思って発言してみた。おや、意味が無いことが正しいってこと…なのかな?

つぎ。不変的な内容の方が他と共有しやすい。不変的だと普遍的だから当然。
時間的に大きいものというのは、結果的に量が多いのと同じだと考えてる。というか感覚的にそういう認識に基づいて動いてきたというのが考えるとよくわかる。小さいものでも長い時間あるならそれは長い目で見たときには大きいのと同じ。4次元的な認識を当然の感覚として持っているわけだけども、これはわりと納得されないだろうし、納得されても実践される能を得ないことが多い。

ついでに言えば、他は自分の論理について理解力が乏しい。自分じゃないのでぽっしゅ。

この三つが他人との関わりの悪さを思ったときの反省点。だけど、自分はその時の自分にしかできない個性の方が不変的で意味を感じているのでどこかで日を読むことは続ける。この場の方向性はまだ定まらない★☆★

2011年3月1日火曜日

13 咳と言えば二人。

最近、自分の目の表現力が大きいことに気づいて驚いた。 
●相手の言うことがおかしいと感じたときとかに目が細まる。きっとあんまり見たくないと思ってのことだと思うんだけども、それが自分で思っていた以上にまさに疎んじてるように見えることに気づいた。 
●何か指示されたときとかこれってどうなってんだと考えるときとか、すごい目が泳いでるって言われるし目大きくなる。きっと広く見てあれこれ答えや問題点を探し回ってのことだと思うんだけども、それが思った以上に滑稽で昨日初めてにして二人に怖いと言われた。 
 頭振り回すことはピアノ弾いたり美味しい物食べたり嫌なことあったりすると多くの人がすることだけれども、自分は眼が見えることもあってそれを日常的に眼で行ってるだけなんだと思う。調子がいいときは頭や首の下も振る。文章書くときはけっこう振り回してる。 


さて。分かるってどういうことなのかと1,2年繁く考えてきたけど、さしあたり、よく見えるようであるときにはよく分かる、という十分条件みたいなことはわりと確かに思う。見えたら絶対に正しく分かるのか、そもそも見るからどうやって分かるのかと言われるとやっぱりわからないけども、仏様やお医者さんは知っているそうです。 

 もちろん昔から広く眼には色んな生き物が頼っているわけで、言葉を見ても視覚的な表現がこの通り目立っている。実際、ものすごい数の神経細胞が集まっていて情報の8割を得るというし、色、光、距離など色んな情報が入り、自分と物との関係だけではなくて物と物との様々な関係をいっぺんに客観することで外の世界を自分とは別に認識できる上手なグラフのようなもので、しかも音や電気よりも桁外れに光の方が速い。 
 これだけ便利で広範囲の機能があるし、むしろ見ようと思わなくても見えてしまうという面白いものだから、道具を使いこなすのが苦手な人にも消極的で人と違うことしたくない人にも、広く受け入れられるものなんだろうと思う。

で、僕は昔からどういうわけか、分かりやすく伝えるということに躍起になっていると思うんだ。実際すこぶる分かりにくいことは分かっているんだけども、それはむしろいわゆる論理的に間違いが無いように、つまり分かりやすくしようとしていたからだと思うし、それにしても一般的な表現からは離れていることを大幅に無視していたからだとも思う。 
 言い訳はともかく。この数年で、俗に言う現実的なことに目を向けるように考えが変わってきたので、表現に勤しむようになったし、かつ一般にも分かられるようにとも考えるようになった。で、あらためて自分がどうやったら分かりやすいのかをよく見てみると、見るということそのものがよく分かるためにしていることだと経験的に見つけた。 
 見ると言っても、実際に像を感覚するわけではなくて想像しているだけなのかと思うけども、でも場所、形、大きさ、光などの似た特徴は立体的に感じられる。何事も包括的に盛り込むのが子どもの頃から好きなので、絵画も音楽もようやく二次元的なものから三次元的なものになってきていて少し安心している。 

 自分は子どものときから鉛筆の文化に慣れていて、消しゴムで消しにくい色鉛筆やペンを使うことや、3色ペンやチェックペンや赤シートを使って流行に乗ることをよしとしなくて、黒と赤だけでむしろ大きさや形で印象づけることが多かった。以後も色で分けることを試みたことはあったけども、どうも色というのは絵の具でもなければ如意に変化させられず、多くの色から選んで今の判断で一つだけ、と白黒はっきり分けることに時間がかかるし困難だったので、白黒に戻った。傲慢に色分けをして楽しまれるノートは傍からはグロテスクに見えることがあるとも知った。 
 そんなことも思うほど、まだ色には疎くて、逆に美しいスペクタクルには茫然とするんだけども、そのほかにも、想像上の質感や温度や音、匂いや味まで分かるようになったらと思うとニコニコする。さて、さっきも言った通り、見えるようであればよく分かっていると考えていて、じゃあ分かるって何かというと、想像することだというのが今自分がさしあたっている結論だ。見るだけが全てじゃなくて、想像上の熱や香りだけでも、想像できていればそれがその人が分かっていることだと思う。 


さてさてさて。景色を見て、何が分かるか。別に何も新しいものは想像できないならそれでいい。僕が新しく考えるのは、景色見たときに、その景色を想像することで、それがちゃんと見るということじゃないかと思ってて、子どものときはいつもしていたのに最近ではめっきりだと思ったことの一つで、それが日常を彩るかどうかなんじゃないかとも思うこの頃。 
同じように、文字を見て分かるってどういうことかということは、文学が他の芸術と違う複雑な方法をとる不思議なものだから長いこと考えたけど、これもつまりありありと想像することなんじゃないかというきっと当たり前のことを思うところまでここ数年の考えは進んだ。 

余談だけども、ぼくは話すときに身振り手振りがやたら激しいことはたまに取り上げられることだったけども、別にそれは躍起になったことではないし全然意識してのことでもない。 
ぼくは何とか学的に、情報の入力は感覚的で、出力は感覚と論理で僅かに論理強めらしい。この形はすこぶる自然だと思ってるけど、違う認識の方法がうまく認識できないのもなかなか当然なので非難することもできない。 


卒業するみなさんおめでとうございます。弥々生いてくだされ★☆★