2011年3月1日火曜日

13 咳と言えば二人。

最近、自分の目の表現力が大きいことに気づいて驚いた。 
●相手の言うことがおかしいと感じたときとかに目が細まる。きっとあんまり見たくないと思ってのことだと思うんだけども、それが自分で思っていた以上にまさに疎んじてるように見えることに気づいた。 
●何か指示されたときとかこれってどうなってんだと考えるときとか、すごい目が泳いでるって言われるし目大きくなる。きっと広く見てあれこれ答えや問題点を探し回ってのことだと思うんだけども、それが思った以上に滑稽で昨日初めてにして二人に怖いと言われた。 
 頭振り回すことはピアノ弾いたり美味しい物食べたり嫌なことあったりすると多くの人がすることだけれども、自分は眼が見えることもあってそれを日常的に眼で行ってるだけなんだと思う。調子がいいときは頭や首の下も振る。文章書くときはけっこう振り回してる。 


さて。分かるってどういうことなのかと1,2年繁く考えてきたけど、さしあたり、よく見えるようであるときにはよく分かる、という十分条件みたいなことはわりと確かに思う。見えたら絶対に正しく分かるのか、そもそも見るからどうやって分かるのかと言われるとやっぱりわからないけども、仏様やお医者さんは知っているそうです。 

 もちろん昔から広く眼には色んな生き物が頼っているわけで、言葉を見ても視覚的な表現がこの通り目立っている。実際、ものすごい数の神経細胞が集まっていて情報の8割を得るというし、色、光、距離など色んな情報が入り、自分と物との関係だけではなくて物と物との様々な関係をいっぺんに客観することで外の世界を自分とは別に認識できる上手なグラフのようなもので、しかも音や電気よりも桁外れに光の方が速い。 
 これだけ便利で広範囲の機能があるし、むしろ見ようと思わなくても見えてしまうという面白いものだから、道具を使いこなすのが苦手な人にも消極的で人と違うことしたくない人にも、広く受け入れられるものなんだろうと思う。

で、僕は昔からどういうわけか、分かりやすく伝えるということに躍起になっていると思うんだ。実際すこぶる分かりにくいことは分かっているんだけども、それはむしろいわゆる論理的に間違いが無いように、つまり分かりやすくしようとしていたからだと思うし、それにしても一般的な表現からは離れていることを大幅に無視していたからだとも思う。 
 言い訳はともかく。この数年で、俗に言う現実的なことに目を向けるように考えが変わってきたので、表現に勤しむようになったし、かつ一般にも分かられるようにとも考えるようになった。で、あらためて自分がどうやったら分かりやすいのかをよく見てみると、見るということそのものがよく分かるためにしていることだと経験的に見つけた。 
 見ると言っても、実際に像を感覚するわけではなくて想像しているだけなのかと思うけども、でも場所、形、大きさ、光などの似た特徴は立体的に感じられる。何事も包括的に盛り込むのが子どもの頃から好きなので、絵画も音楽もようやく二次元的なものから三次元的なものになってきていて少し安心している。 

 自分は子どものときから鉛筆の文化に慣れていて、消しゴムで消しにくい色鉛筆やペンを使うことや、3色ペンやチェックペンや赤シートを使って流行に乗ることをよしとしなくて、黒と赤だけでむしろ大きさや形で印象づけることが多かった。以後も色で分けることを試みたことはあったけども、どうも色というのは絵の具でもなければ如意に変化させられず、多くの色から選んで今の判断で一つだけ、と白黒はっきり分けることに時間がかかるし困難だったので、白黒に戻った。傲慢に色分けをして楽しまれるノートは傍からはグロテスクに見えることがあるとも知った。 
 そんなことも思うほど、まだ色には疎くて、逆に美しいスペクタクルには茫然とするんだけども、そのほかにも、想像上の質感や温度や音、匂いや味まで分かるようになったらと思うとニコニコする。さて、さっきも言った通り、見えるようであればよく分かっていると考えていて、じゃあ分かるって何かというと、想像することだというのが今自分がさしあたっている結論だ。見るだけが全てじゃなくて、想像上の熱や香りだけでも、想像できていればそれがその人が分かっていることだと思う。 


さてさてさて。景色を見て、何が分かるか。別に何も新しいものは想像できないならそれでいい。僕が新しく考えるのは、景色見たときに、その景色を想像することで、それがちゃんと見るということじゃないかと思ってて、子どものときはいつもしていたのに最近ではめっきりだと思ったことの一つで、それが日常を彩るかどうかなんじゃないかとも思うこの頃。 
同じように、文字を見て分かるってどういうことかということは、文学が他の芸術と違う複雑な方法をとる不思議なものだから長いこと考えたけど、これもつまりありありと想像することなんじゃないかというきっと当たり前のことを思うところまでここ数年の考えは進んだ。 

余談だけども、ぼくは話すときに身振り手振りがやたら激しいことはたまに取り上げられることだったけども、別にそれは躍起になったことではないし全然意識してのことでもない。 
ぼくは何とか学的に、情報の入力は感覚的で、出力は感覚と論理で僅かに論理強めらしい。この形はすこぶる自然だと思ってるけど、違う認識の方法がうまく認識できないのもなかなか当然なので非難することもできない。 


卒業するみなさんおめでとうございます。弥々生いてくだされ★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。