2011年4月20日水曜日

24 じかんのびちぢみの10さい

18日から仙台市で給食が再開したらしい。向陽も他の子どもも元気にごはんを食べてください。僕は給食が好きだったけど中学から昼ごはんを食べない習慣ができた。体重減った。好きなメニューはわかめごはん。

書きたいことはいろいろあるけど時間が無いしイマイチまとまらない。そうだ、その話にしよう。



一週間くらい責任を逃れて寝ていた。入院でもしてない限り、若いうちにそんな状態は意識的に作らないと無いと言ってもいい。むしろ若いうちだから意識的に作れるのかも知れない。
   何も憂えることが無くて満たされている状態というのは有り難く、普段は感じない普遍的な幸せを感じる。何かに追われていても、逆に何かに意欲的でも成り難い。力を入れることよりも力を抜くことの方が難しい場合があるのに似ている。既にそこに有る力を無くすには、自分のしていること、自分の身体を理解しないといけない、でも基本的な部位においては必ずできるはずだから、自分の正確な理解力や統率力が問われる。

コミュニケーションをほどほどに、夜はあまり晩過ぎず寝て、自然と昼にゆったり起きていると、何日かすると壮大な夢を見る。普段も見てるものかも知れないけど、比較的強烈に見ることができるようになる。長く広くゆったりと味わえる、起きてすぐ賢者になって忘れる夢とは違う。
   普段から夢に親しんでいる人なら今さらと思うかも知れないけど、夢に親しんでいない人の方が圧倒的に多いだろう。こんなにも面白くて夢があるものがいつでも自分の中に存在することをすっかり忘れている大人はきっと多い。陳腐な話だけど、夢は潜在意識をとてもよく表してくれる。

   夢は人によっていろいろだろうけど、自分のゆったりしてる時の夢は、子どもの頃の友達が今の友達と混ざって出てきたり、小学校の校舎や一回だけ遊びにいった野原なんかがよく出てくる。時には知らない人だけど仲の良い設定の友達が出てきて、雨の日の暗い林を横に、どこへとなく歩く風景に混ざっていたりするんだが、自分はそこにやっぱり果てしない幸せを感じていた。

何も憂えることの無いことは多くの人にとって幸せでありそう。それがどういう風に発展するわけでもなく、成長することもなく、ただ永久にそのままであればいい、満たされている状態。それを直感的に知ってるのは子どもであるような気がする。


子どもは、一つだけ願いが叶うならどうするかと訊くと、大体は空を飛びたいとか、大金持ちになって好きなものを好きなだけうんたらとか言う。自分もそうだった。ただ空を飛べたら100年間飛び続けても良いと思ってる。大人は空を見てもだから何だとすら思わない人が多い。子どもは空の綺麗さを分かってる。自由に、ひたすら世界を客観する楽しさを分かってる。感性が良ければ良いほど多くのものは美しく見える。

世界を、何か抽象的な目や思想的な目で狭く見ると、いくつかの違う景色も同じ様に見える。その目は大事だしある程度楽しい。でも同じに見えれば特別さは減って失う楽しみもある。二者択一的では無くて、両方の目を持つことはできると思うから、楽しみ倒すことはできると思うけど、大人はそういう狭い目しか持ってない人が多い。

それに比べて子どもは、感性が豊か。感性のためなら何も考えていない方がまだ良いと思えるほど。そして、それぞれが違う特別な時間を生きている子どもは、時間が長い。もっと言うと、時間を知らない子どもには、時間が無い。自分の世界が強い子どもにもまた、時間が無い。何かに集中しているときには、その人には時間が無くなる。気づくと時間が経っててかえって速いかも知れないけど、速さじゃなくて、時間そのものを感じているかどうかの話。時間をすっかり忘れるということは大人になってからでも落ち着けばできることだけど、子どもは基本的にそういう状態だろうと思う。

速いか遅いかに関わらず、特別でかけがえのないものとして生きられた時間は、充実感が持たれる。何かを在らしめる意味が有るから。そんなことに最近気がついた。要するに時間を忘れるくらい広く世界を自分のものとして感じて、過ごした時間は活き活きとした特別なものとして一緒に生きていくようにしようと思う。イマイチ支離滅裂申し訳無い。画像欲しいな★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。