2011年10月24日月曜日

45 1リットルの塩水が支える相対性社会

2011年12月4日(日)快晴と強風

世の中は就活も熱い時期ですね。
今日はSPI対策の本読んでてこんな問題が出てきた件。著作権拝借します。

「4%と9%の食塩水を混ぜて8%の食塩水を1000g作りたい。4%の食塩水は何g必要ですか。」

はい考えて。

●模範解答の引用↓

   4x+9y=8000…I ←(濃度% × 食塩水g)の式。
   x+y=1000…II
   これを解いて、x=200

なるほど、文字を二つ置いて、二次方程式を立てるわけですね。中学生の数学を学んだ人なら誰でも解ける。

●僕の解法↓   伝わらないと意味無いので冗長に説明する。

   実はこれ、素直な人なら感覚的に気づくと思うけども、4%と9%を一定の割合で混ぜれば、1000gとか重さに関係無く8%になるお。その割合は、素直な人なら考えれば分かる。あるいは考えなくても分かる。
   例えば、もしこれが20%と40%混ぜて30%にするなら1:1じゃん。0%の水道水で10%のアルコールを2%に薄めるなら5:1だ。つまり逆比を使えばよろしいってこと。簡単。

この問題を考えてる過程で、頭の中にこんな図がふわふわ浮かんできた。
はい天秤の図。作った。
   日本中の人が「てこの原理」とか言って慣れ親しんでるその原理をちょこっと応用すれば小学生の天秤の問題は全て簡単に解けるわけだけど、それがどうして食塩水の問題に使えるのか、素直ならすぐわかる。
   支点から近くにかかる力は作用が小さく、支点から遠くにかかる力は作用が大きい。この図で言えば、8%という釣り合いが取れる点に対して、4%も離れた4%食塩水の方が少量混ぜるだけで濃度に大きな影響を与える。ただ4%という隔たりを大きな存在にしているのは対になる1%の隔たりで、つまり比率がモノを言っている。1000gという重力を支えさせるように食塩の重さを割り振るのは、距離の4:1の逆比、1:4だ。4%の食塩水は1000gの5分の1必要になる。

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こんなに冗長な話はここまでだ。今のは導入だから。

上の二つの解法で、僕が好きなのはもちろん後者だ。

   自分は代数があまり好きじゃない。奇抜な発想と高度な計算で複数の事象を暴く技術としては非常に興味深いし尊敬するけども、あまりにも概念的でついていけない。何より忌み嫌うのは、意味も解らず数字を作成して暗記した通りに変形しては数理を分かった気になっている人が8割くらいいることだ。優れた数学者は、数学よりもむしろ物理学を好むことすら多い。
   上の問題は、数学を持ち出すまでもないほど身近で現実的な問いだと思う。そして、SPIを通して企業が把握したいのもそういう実務的な能力の有無だろうと思う。少なくとも自分は、目に見えて仕事の役に立たせるほどに空論を操作する技術は稀有かと思う。
加えて、わざわざ文字を立てるまでもなく全体が容易に理解できるように図式化できて、模範よりも速い。

   ちなみに、その「てこの原理」は、このSPIの本の単元である、てこ、天秤、滑車、食塩水、鶴亀算、仕事算、ニュートン算とやらにも応用できた。なかなか面白いからそれぞれまとめてみたいくらいだ。


さて、
SPIを通して社会が望む能力とは何か、人間が基本的な物事を成すために重要な能力って何かって意見を述べたいためにこの話を持ち出したわけだ。

暗記して意味も解らず同じ事を繰り返す能力よりも、自分で全体をよく見て問題点を発見して、柔軟に明解に速く解決する能力だと言いたい。

そして、それは算数をするときにも今見たほどには役に立つ。むしろ必要とするくらいだ。

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私が小学生のとき、「算数はとにかく比が命だ」と先生がよく言ってたのを憶えてる。自分も同感だったし、今も概ね同感だ。

てこの問題にしろ、文字や状況を図に表す力にしろ、一つの図式を他の分野に利用する力にしろ、私の思想にしろ、比べてばかりだ。どれも比べる力が無ければ成り立たないし、比べるものが無くても成り立たない。

そもそも物理や水溶液の問題が算数の問題として出されているんだから、算数と理科を比べる例は分かりやすい。論理の実際の場である言語を整理して理解するにも比べる力は使うし、現実社会を抽象化、図式して理解する際にもやはり比べる力は便利だ。算数に限らずいろいろ得するのではないかと思う。

この話は何度もしてるけど、一つが二つにも三つにも役に立つと思えれば、もちろん実際に役に立たせれば、利益は大きい。一を聞いて一までしか分からないと信じてアンテナを休ませれば、大体そのようになる。算数とSPI、SPIと就職がなぜ関係しているのか、分からないよりも分かる方が好ましいに違いない。

補足だけど、そもそも、世の中は比較でしかないという考えは仏教や現代の哲学にも頻繁に言われている思想の一つで、そこまで大げさではないにしろ、自分も世の中縮尺が重要だと考えている。例えば、ある図形の任意の箇所の縮尺を任意に変えれば、任意の輪郭を持った図形に変形できるように、いくら元が同じものでも、様々な視点からの尺度、比率がバラバラに変われば、全体として見えるものは全く別のものになってしまう。つまり、人の認識は全体的なバランスを見る力によって大きく異なるということだろうと思う。

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もう一つ、全体を見て正しく割合を見れるようになると、確率だとか潮流だとか雰囲気だとか、なんとも言い難い機微を感じられるようになる。会話、スポーツ、芸術の中で、何となく情勢が分かって、さじ加減を調節できる。このへんは表立たない作用。

個人的に興味深いテーマなんだけど、いわゆる「運」や「偶然」というものは、まったく人知を超越した神秘的な何かと考える人もいれば、天文学的に膨大でカオスな事象の組み合わせでやはり人知を超越してると考える人もいれば、何の理由も無いと考える人もいるだろうけど、自分は、それらのどの考えも捨ててはないけど、一つには、そういう算数的な感覚や、数学的な関数でわりとたやすく解釈できる、そして操作できるものも多くあるだろうという考えを強く持っている。これも概ね前から言ってる通り。





・・・もう一つ話したいテーマがあったんだけどまた長いんで次回に回す。
あれかな、よくある経済とかゲームとか哲学の話になるかな★☆★

      

44 少年-OIYASUSHI-

2011年10月24日(月)うらめ

夏ごろから繁く思うことがござる。主に職務、業務、教育について。
就職の知識と意欲など吹かずに飛ぶ程しか無い私が論じるのだから戯言と言って然れよ。

「こいつら仕事できねーな」自分の仕事中のみならず、他のお店とか企業に赴いてもほぼ確実に思う。例えば…

   ・言われたこと、書いてあることがその通りにできない。
   ・分からないときに訊かないで勝手にやっとく。
   ・発言が聞き取れない、間違ってる、回りくどい等で伝わらない。
   ・一つの仕事を分割払いしたり、期日が早いものを後回しにしたりと、効率が悪い。
   ・遅い。急がない。
   ・空気読まない。状況の把握しない。
   ・元気無い。楽しくない。表情がウザい。

なんでそれで仕事できねーって言うかって、こういう考えがある。

   ・つまり上の項目ってのは効率悪い。俗っぽく言えばつまり頭悪い。同じ時間でできる仕事量が違うわけだ。教育しにくければ時間がかかる。声が聞こえなければ時間がかかる。また、楽しくなければ能率が落ちるという思想を当然と思えるかどうかに若輩の私は思想の深みと広がりを感じる。以前いろいろ書いている通り、繋がりを見る広い目に関わる。
   ・大体の原因はコミュ障だ。就職において、コミュニケーション能力が最重要視されると聞く。これは同感だ。英語しか喋れない人と仕事はしたくない。共感する能力が無ければ理念の下にある仕事を共にするのは難しい。まずは考え方、つまり根本から合わないといかんし、仕事はまずは他人の為。これ当たり前分かってない人約8割。

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   そして、小学生の算数を繁く教える中で「この考え方ができないと仕事できない大人になる」という繋がりが分かってきた。これはかなりはっきりしたことだと思える。例えば…

   ・文章に書いてあることを理解しない。何がどうなっているか想像しない。
   ・ちょっとの間でも記憶していられない。どれがどれか注意して憶えてない。
   ・正確に写し取らない。自分で書いた数字すら汚くて読み間違える。
   ・計算の意味を考えずに、どの問題にはどの解法、と暗記している。
   ・自分で考えないですぐ他人の力に頼る。その場が良ければいい。


   そもそも小学校の勉強なんか役に立たんと思う?そもそも学業が役に立たんと思う?国をあげて教育に力を入れる意味が分からない?それはまた広い目が無いと言えば済む。
   例えば紙を印刷して半分に折る作業を二人でやる場合、これを分担しないで、印刷を二人でやってその後で半分折りを二人でやると、道具や場所が足りなくて待ち時間が出るし、二人ともが二つの仕事を覚える必要があるし、せっかく覚えてきたところで半分しか無いから遅いまま終わるし、終わった後二人とも一気に仕事が無くなって無駄な時間になるし…。
   こんな単純な仕事でもいくらでも可能性や方法がある。この程度言われれば変だと分かるだろうけど、実生活ではこういうこと約7割の人がやってる。約9割の人がとっさに良い方法を考えつかない。そして大事なのは、これらの仕事を上手に行うことは小学生の算数の問題が数値化されているか否かの違いだけで、何も変わり無いということ。


改めて、どういう考え方ができないとどういう大人になると考えているか、例えると…

   ・理解しない、想像しない   →   まずしっかり話聴かない。で、自分で仕事できる道筋を想像しないから進み出す方向が分からないし、事前に問題点に気付けないから何度も訊きにいくことになる。当然、自分で企画をしても問題点だらけ。って大人になりそう。

   ・記憶しない、注意しない   →   目の前のものにとらわれ過ぎ。あっちをするとこっちが抜ける。違うものを混同する。何に何の意味があるのか理解してない。使えるものも捨てる。

   ・正確に書き写さない   →   やっぱ正確さに欠ける。めんどくさがりだったり、自分が正しいと思ってるところが強くて、勝手なことする。しかも間違いを認めない。

   ・すぐ暗記、すぐ他力   →   いろいろ表面的に考えてる。応用力無し。もしくはやる気無し。ただしこういう人は、大人になるにつれて笑顔と挨拶だけは良くなるパターンが多い

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   …と、考えているとき、折しもお古のSPI対策の本を勧められて見てみたところ、実に小学生の算数の問題ばかりじゃん。しかもよく見たら、問題分に書かれていることを図に描き直してみれば答えは一目瞭然であるというのに、わざわざ連立方程式を立てては数字を操作するだけの意味の無い解法を「時間をかけない解き方」として手順を暗記させようとしていて、SPIの意図とは不適合ではないかと思える書物だったのは伏線的余談。

   雇用側がこれを求めてるってことは、つまりこの能力が仕事の役に立つってことだよね?履歴書の大学も見るけど、小学生の問題解けるかも改めて問う。そして、それができない人がけっこう多いからこそ実施するんだろうと思います。


   10年前くらいに【九九のできない大学生】なんてニュースになったじゃん。私は子ども心に「あんなのメディアの誇張か、本当だとしても勉強なんか全然したことないような人つかまえて言ってんのか、そうじゃなくても日常で算数なんか使わなきゃ忘れもするだろ、だってお母さんもできないし!」と思ってる時期がありました。しかし未だに九九のことが一日でも頭を離れたことが無いのはそうなんだけど、今になって目からウロコが落ちたのは、全国的に有名で就職に強いと言われる大学で専門に数字を扱う大学生ですら、三角形の面積の出し方や小数点の計算やらを次々に間違えまくり、それが一人や二人じゃないことだ。ちなみに目からウロコという言葉は初めて使ったかも知れない。あぁ、今気づいたけど彼らは正にゆとり世代なのか。

   就職大変な時期が続いてるし、何だかんだ言って小学生の頃から仕事したくないなーっていう不安をずーっと持ち続けて成長してきたのが平成の若者だと思うんだけど、周りの現状を見てみて、なるほどこれなら自分が社長(笑)だとしてもどれも雇用しない。こういう人が真っ先に落ちるんだと、半ば安心して相変わらず勉強をサボっている。

   こんなに上から目線なのは、一般常識は無いけど考えることだけは質量をこなしてきて、罵倒されても評価されることは僅少だったので、ちょっと驕っておきたいから。大学受験の時のようには振り回されないで自信を持っていたい。

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      しかし一番言いたいことは子どものこと。

保護者は勇気を持って、子どもたちに、ぜひ早めに、しっかりした教育をしてあげてほしいということだ。   先行きの暗い現在、子どもに可哀想な未来を迎えさせないための保護者の義務と考えてもいい。


   最近子どもブーム同様に教育ブームを感じてるので少し安らかではあるのだけど、今は住んでいる地域などによって教育の格差がものすごく激しくなってるので、全然包括的ではない。
   算数じゃなくてもいいんで、どちらが福利になるのかよく検討されたい。

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…まぁあくまで上に書いた能力は業務を行う上の最低限の基本であって、そこから上がむちゃんこ大変だと思ってるんだけどね。

また近いうちに算数がどう役に立つのかとか、算数さんについて秘めたる想いを少しばかり書こうと思う★☆★

        

2011年10月5日水曜日

43 やらせたい放題やり放題

トイザらス行って一周見てきた。あんなハイカラなとこ一回くらいしか行ったこと無かったんで、もののついでに。不思議なおもちゃがいっぱいあって驚いた。

大人は普通ホイホイ与えない。クリスマスか誕生日のときだけと約束してしまい、ダダをこねるか祖父母に連れてもらうかしないと手に入らなくて友達を羨むとかよくあるパターンだけども、実際は全然大人の手が届かない値段ではなくて、一万円もするものは稀。親もいろいろ考えているのか、あるいは気分的に嫌みたいだ。

店内にいた複数の幼児を見ると、純粋でかわいいなんて子は稀だった。いつも大きなお店に行くとそう思う。なぜだろうなぜかしらと考え始めた。

もし子どもが頻繁に玩具を与えられたら…? 四半期に二個以上ってとこだろうか。

一つ。
   幾分受動的になりそう。欲しい物が降ってくれば自分で想像力を働かせなくなるというのもありそうだけど、もう一つ、ある遊ばれる目的を持ったおもちゃを扱うことで、それに合わせた遊び方をするようになりそう。ついでに言えばそれが限定的であればあるほど、一対一の正解を求める傾向が付きそう。
   受動的で相手に合わせる分、自分より外の世界が何を求めているのか、何を考えているのか、何をどう感じているのか、どういう仕組みで動いているのか、あるいはそれをどう扱えば適当なのかということについて敏感になりそうだ。それでいて、主体的で自己中心的に活動の場を広げる子どもが自分の感性との関わりで世界を知るのに比べて、客観的な判断をしそう。
   遊ぶ道具が断続的に与えられることで、暇を持て余して何もしないというようなことにはならず、活動的かつ主体的になることも考えられるが、その場合も、あくまで対象物があることで主体性を獲得するのであって、本当の意味では受動性を抜けきれず、自分の根本的な気持ちを観察することをせずに、外の世界に自分を見出しそう。
   逆に言えば、遊び道具に乏しくて余暇を持つ子は、古代ギリシア市民に哲学が誕生したように、自分の気持ちの観照やその表現に長けそう。

二つ。
   おもちゃが手に入らない子どもが夢を見るのに対して、実際に遊び終わった子どもは夢が過大評価であったことを知ることが多い。あまり決定的ではないように思うけども、世界を現実的な大きさで見て、結果的に他の子どもよりも小さく見る子どもたちは、ませた感じになる傾向がありそう。既知の物は勿論だし、さっき言ったように理解が速いから初見の事物を現実大で見るのも速そう。パズルなどの思考力を使うものでなければ、結果的に創造的よりは現実的になるかなぁと。
   ただ、現実大で見るということは、他の人が目もくれない場所も正しく見るということで、一概に他の人よりも小さく評価するとも言えないし、未知のものについてまで過小評価する傾向があると予想するのも性急であるように思う。そのへんは何日か考えたけどよく分からんので保留。

さて。

   玩具についてその辺まで店内で考えて、最近よく耳にするが耳慣れない子どもの名前に思い至り、一つ面白い仮説を立ててみた。まるでおもちゃの商品名やアニメのキャラクターのような名前を掲げる子どもたちは、もしかすると上述したような傾向を持つ子どもに成長するのではないか、と。こんなロマンチックな名前だけど、現実にしてみればこんなもの、と思うのではないかしら。注目。


蛇足ながら僕については、人生の最古の記憶の候補の一つが、「スーパーマリオワールド」を一人でやっている自分が普通の子どもと比べて変なのではないかと疑うというものであるほど幼い頃からテレビゲームをやっていて、親よりゲームが好きだったし、親よりゲームに教わることが多かった。根っから受動的であるように思う。あまり活動的ではないように思う★☆★