2011年10月5日水曜日

43 やらせたい放題やり放題

トイザらス行って一周見てきた。あんなハイカラなとこ一回くらいしか行ったこと無かったんで、もののついでに。不思議なおもちゃがいっぱいあって驚いた。

大人は普通ホイホイ与えない。クリスマスか誕生日のときだけと約束してしまい、ダダをこねるか祖父母に連れてもらうかしないと手に入らなくて友達を羨むとかよくあるパターンだけども、実際は全然大人の手が届かない値段ではなくて、一万円もするものは稀。親もいろいろ考えているのか、あるいは気分的に嫌みたいだ。

店内にいた複数の幼児を見ると、純粋でかわいいなんて子は稀だった。いつも大きなお店に行くとそう思う。なぜだろうなぜかしらと考え始めた。

もし子どもが頻繁に玩具を与えられたら…? 四半期に二個以上ってとこだろうか。

一つ。
   幾分受動的になりそう。欲しい物が降ってくれば自分で想像力を働かせなくなるというのもありそうだけど、もう一つ、ある遊ばれる目的を持ったおもちゃを扱うことで、それに合わせた遊び方をするようになりそう。ついでに言えばそれが限定的であればあるほど、一対一の正解を求める傾向が付きそう。
   受動的で相手に合わせる分、自分より外の世界が何を求めているのか、何を考えているのか、何をどう感じているのか、どういう仕組みで動いているのか、あるいはそれをどう扱えば適当なのかということについて敏感になりそうだ。それでいて、主体的で自己中心的に活動の場を広げる子どもが自分の感性との関わりで世界を知るのに比べて、客観的な判断をしそう。
   遊ぶ道具が断続的に与えられることで、暇を持て余して何もしないというようなことにはならず、活動的かつ主体的になることも考えられるが、その場合も、あくまで対象物があることで主体性を獲得するのであって、本当の意味では受動性を抜けきれず、自分の根本的な気持ちを観察することをせずに、外の世界に自分を見出しそう。
   逆に言えば、遊び道具に乏しくて余暇を持つ子は、古代ギリシア市民に哲学が誕生したように、自分の気持ちの観照やその表現に長けそう。

二つ。
   おもちゃが手に入らない子どもが夢を見るのに対して、実際に遊び終わった子どもは夢が過大評価であったことを知ることが多い。あまり決定的ではないように思うけども、世界を現実的な大きさで見て、結果的に他の子どもよりも小さく見る子どもたちは、ませた感じになる傾向がありそう。既知の物は勿論だし、さっき言ったように理解が速いから初見の事物を現実大で見るのも速そう。パズルなどの思考力を使うものでなければ、結果的に創造的よりは現実的になるかなぁと。
   ただ、現実大で見るということは、他の人が目もくれない場所も正しく見るということで、一概に他の人よりも小さく評価するとも言えないし、未知のものについてまで過小評価する傾向があると予想するのも性急であるように思う。そのへんは何日か考えたけどよく分からんので保留。

さて。

   玩具についてその辺まで店内で考えて、最近よく耳にするが耳慣れない子どもの名前に思い至り、一つ面白い仮説を立ててみた。まるでおもちゃの商品名やアニメのキャラクターのような名前を掲げる子どもたちは、もしかすると上述したような傾向を持つ子どもに成長するのではないか、と。こんなロマンチックな名前だけど、現実にしてみればこんなもの、と思うのではないかしら。注目。


蛇足ながら僕については、人生の最古の記憶の候補の一つが、「スーパーマリオワールド」を一人でやっている自分が普通の子どもと比べて変なのではないかと疑うというものであるほど幼い頃からテレビゲームをやっていて、親よりゲームが好きだったし、親よりゲームに教わることが多かった。根っから受動的であるように思う。あまり活動的ではないように思う★☆★

   

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。