2011年3月29日火曜日

20 プラトニックタイム

少し前、休日になると忍たまがやらないので鬱になっていた時期がありました。
最近は同様に天てれがやらない休日は鬱です。
そうでなくても三月は津波の様な卒業シーズンで鬱がいくつも押し寄せる。


子どもが好きなのは僕だけじゃなくて昔からある趣向であるのに加えて、特に最近の世間の趣向でもあると思う。平成があまりにも平和で、便利で、人間の生物的、文化的レベルが非常に高まってるから。それに、子どもの頃が極上に幸せだったのに大人になるにつれて辛いことが増える一方だった人が今の20代に多いのも今の社会の諸事象の大きな原因だと思う。

子どもを好きになる、特に生の子どもを好きになるってのは、ある程度複雑な嗜好だとは思う。単に見た目や声や甘える性格とか弱々しさがかわいいとかいう二次元的な好みだけだったらあまり好きにはなりきれなくて、大きな見識や深い情があって、少なからず記憶や背景や心情や友情や拙さ、切なさを見ているから愛着が生まれるんだろうと思う。


そもそも僕が子ども、どちらかと言うと男の子を好きになったのは、自分が子どもの頃から。でもその時はまだ周りにいる同年代と自分自身が好きだったのでそんなにおかしなことではなくて、自分だけ時間をより大きく纏う様になるとだんだん年下が好きになったというだけのこと。小学校4年生の時には、人間はこの小学4年生こそが最も美しい時期だと強く思っていたのをよく憶えているし、初恋もその年だったと思う。中学2年生の時には、一日一日がめちゃくちゃ楽しくて、同じくらい悲しかった。中学3年生からは心の奥で諦めていた。高校生の頃は懐古に始まり懐古に終わり、今思うと自分では殆ど恋をせず、中学生同士の明るみばかり見ていた。卒業する頃には子どもを見ては泣くようになっていて、今では完全に子どもと自分の子ども時代を愛してる。

現実の子どもが好きになって気づいたことも沢山ある。絵に描いた子どもとは情報量の比が歴然で、絵はあまり好きでもなくなることが多くなる。コンテンツが終わってもどこかでまた会えるという希望が大きい。でもいったん終わったときの悲しみはめちゃくちゃ大きいし、永遠性の無さは不安になる。エロゲをクリアすると鬱になると聞いたときうまく想像できなかったけど、今は痛いほど分かる。

あの時はああ思った感じた、でも今は思い出せないほど微塵も思わない、ということはとてもよくある。ぼくはそれを子どもの頃からよく知ってるつもりだったから、あまり熱くならず物事をますますよく考えるようになっていた分確実な物を探して決断力に欠けて、感情に起伏も少なくて好き嫌いが殆ど無く、消極的で無駄なことを嫌う上にみんな無駄に見えて、なかなか損してたというか、得られていないものが沢山あるだろうと思う。逆に自分を強くできたり思考が成長したことは良いことだとは思ってる。考えることも大事だし、考えないで行動することも大事だと思うから、どちらが良いとはまだ結論出せてないんだけど、少なくとも先人の教育でもっと断然良い方向に生きることはできる余地はかなりあると思う。


そんな自分だけど、子どもが好きなのは子どもからのことだし、様々な思想を経た今あらためて愛してるわけで、きっと死ぬまで子どもに従事するだろうと思ってる。書いてたらまだ盲目的なところがあるような気もしてきたけど、さしあたり今は、何をしていても最終的な目標はきっといつもそのあたりなんじゃないかなぁと思っている。

自分の生を生きる目的は、立派な子どもになること。これができなかったら死ぬ。これはアイデアとしては誇れるぼくの大きな夢。大人として死を生きる(19参照)か、永久に子どもとして本当のこの世界のゴールに到達するかのどちらか。

天てれの画像や動画を探しては鬱と闘い抜いた引き籠りの3日間でした★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。