2011年4月30日土曜日

25 寝る子は育つ。

考えることはいろいろありますが書くことが難しく、一回遅れると叱られるのが怖くてさらに後回しにしてしまう。よくある。遅れてもなければ叱られもしないけどさ。
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しばらく考えてたんだけど、表現することが大事だなと思うんす。積極的な行動には問題が伴う可能性が大きくて危険だけど、勿論いいところもあるってことで。例によって、比較的自分なりの論理的に。


一般的な話。

・表現することで、明確に分かるようになる。自分で何を想像しているのか見える。
・表現することで、そこまで考えていたことは稀少価値が無くなる。
・表現することで、そこまでの思考が保存されて、一時記憶の負担が減って思考が楽になる。
⇒で、自然と新しいものが求められる。生まれやすくなる。
・あるいは表現に齟齬がある中で、偶然よいものができるかも知れない。逆も然り。

と聞いて、何を例として想像するか知らないけど、これは様々な規模で言えること。
・例えば毎日日記やブログ書く人は、今日が何だったのか、何があったのか判明につかめる。
・同じことを書いてもつまらない、誰も褒めない。
・昨日のことは忘れるかのように意識の深いところに土台として置き、違うことに取り組む。
⇒で、自然と新しいものが求められる。生まれやすくなる。

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次の視点。極端に一般性を失う。宗教じみた話。ちなみに私は宗教と科学の差をよく分かってない。これには説明が有るけどそのうち書く。

2011年4月20日水曜日

24 じかんのびちぢみの10さい

18日から仙台市で給食が再開したらしい。向陽も他の子どもも元気にごはんを食べてください。僕は給食が好きだったけど中学から昼ごはんを食べない習慣ができた。体重減った。好きなメニューはわかめごはん。

書きたいことはいろいろあるけど時間が無いしイマイチまとまらない。そうだ、その話にしよう。



一週間くらい責任を逃れて寝ていた。入院でもしてない限り、若いうちにそんな状態は意識的に作らないと無いと言ってもいい。むしろ若いうちだから意識的に作れるのかも知れない。
   何も憂えることが無くて満たされている状態というのは有り難く、普段は感じない普遍的な幸せを感じる。何かに追われていても、逆に何かに意欲的でも成り難い。力を入れることよりも力を抜くことの方が難しい場合があるのに似ている。既にそこに有る力を無くすには、自分のしていること、自分の身体を理解しないといけない、でも基本的な部位においては必ずできるはずだから、自分の正確な理解力や統率力が問われる。

コミュニケーションをほどほどに、夜はあまり晩過ぎず寝て、自然と昼にゆったり起きていると、何日かすると壮大な夢を見る。普段も見てるものかも知れないけど、比較的強烈に見ることができるようになる。長く広くゆったりと味わえる、起きてすぐ賢者になって忘れる夢とは違う。
   普段から夢に親しんでいる人なら今さらと思うかも知れないけど、夢に親しんでいない人の方が圧倒的に多いだろう。こんなにも面白くて夢があるものがいつでも自分の中に存在することをすっかり忘れている大人はきっと多い。陳腐な話だけど、夢は潜在意識をとてもよく表してくれる。

   夢は人によっていろいろだろうけど、自分のゆったりしてる時の夢は、子どもの頃の友達が今の友達と混ざって出てきたり、小学校の校舎や一回だけ遊びにいった野原なんかがよく出てくる。時には知らない人だけど仲の良い設定の友達が出てきて、雨の日の暗い林を横に、どこへとなく歩く風景に混ざっていたりするんだが、自分はそこにやっぱり果てしない幸せを感じていた。

何も憂えることの無いことは多くの人にとって幸せでありそう。それがどういう風に発展するわけでもなく、成長することもなく、ただ永久にそのままであればいい、満たされている状態。それを直感的に知ってるのは子どもであるような気がする。


子どもは、一つだけ願いが叶うならどうするかと訊くと、大体は空を飛びたいとか、大金持ちになって好きなものを好きなだけうんたらとか言う。自分もそうだった。ただ空を飛べたら100年間飛び続けても良いと思ってる。大人は空を見てもだから何だとすら思わない人が多い。子どもは空の綺麗さを分かってる。自由に、ひたすら世界を客観する楽しさを分かってる。感性が良ければ良いほど多くのものは美しく見える。

世界を、何か抽象的な目や思想的な目で狭く見ると、いくつかの違う景色も同じ様に見える。その目は大事だしある程度楽しい。でも同じに見えれば特別さは減って失う楽しみもある。二者択一的では無くて、両方の目を持つことはできると思うから、楽しみ倒すことはできると思うけど、大人はそういう狭い目しか持ってない人が多い。

それに比べて子どもは、感性が豊か。感性のためなら何も考えていない方がまだ良いと思えるほど。そして、それぞれが違う特別な時間を生きている子どもは、時間が長い。もっと言うと、時間を知らない子どもには、時間が無い。自分の世界が強い子どもにもまた、時間が無い。何かに集中しているときには、その人には時間が無くなる。気づくと時間が経っててかえって速いかも知れないけど、速さじゃなくて、時間そのものを感じているかどうかの話。時間をすっかり忘れるということは大人になってからでも落ち着けばできることだけど、子どもは基本的にそういう状態だろうと思う。

速いか遅いかに関わらず、特別でかけがえのないものとして生きられた時間は、充実感が持たれる。何かを在らしめる意味が有るから。そんなことに最近気がついた。要するに時間を忘れるくらい広く世界を自分のものとして感じて、過ごした時間は活き活きとした特別なものとして一緒に生きていくようにしようと思う。イマイチ支離滅裂申し訳無い。画像欲しいな★☆★

2011年4月14日木曜日

23 大人は知らない僕らのひまわりの唄

気づくと今年始まって100日経っていたこの頃、大!天才てれびくんが地震にも負けずとうとう新年度をスタートした。どうやら視聴者参加型ということで戦士が極端に少ないとかなんとか。去年になって見始めた自分は天てれの流れは詳しく知らないけど、今までも変更を恐れず番組を作ってきた天てれなので、教育のために時代を読んでのことなのかも知れない。この苦しみをよく噛み締めておこう。
   もう少し素材が収集できれば小川向陽の人気を何とかして上げて、東日本と全俺を盛り上げてもらおうと思ってる。それなら急がないといけないけど。
天てれフォトブックを読んで改めて考えたんだけど、小川向陽はどうやら幾分他の戦士からすれば疎ましい存在らしい。話が長いとか前に出過ぎとか言われてる。でも20年以上生きた自分からしてみれば、向陽は実にちょうどいい。人を楽しませるレベルを非常によくわかっていて、むしろ芸能人としては他の戦士は控えめ過ぎると思える。番組の中でも外でも向陽は大人に人気があるし、オッサンぽいというのが戦士の中での共通見解であることも考えれば、普通の子どもはちょっとついていけないんだろう。そのギャップがたまらない。
   加えて元気いっぱいでよく通る完全な高音ハスキー、だけどちょっと幼い声も、子どもにはうるさいんだろう。近年、無思慮のせいで自分自身の嗜好を勘違いする大人が多いので、女の子みたいな男の子がちやほやされる風潮があるけど、そうじゃない。本当に愛でたいのは元気な男の子に違い無い。

2011年4月8日金曜日

22 つうつうつうつうゆう

あいうえお。まとまったことを書く予定は無いけど一応勝手な論の続き。レベルの低過ぎる鬱についてはしらん。

そもそも鬱になるには沢山の可能性がありそう。一つの結果が起こるための原因は一つとは限らない。むしろほぼ複数しか無いだろうと考えてる。複数の原因を見るという目は大切かどうかはともかく、とても大事だと思う。この考え方を持ってない人はめちゃくちゃ多いし、自分も去年くらいまではやたら一つだけの原因を探す癖があって今もちょっと割り切れてない。
   ということで鬱にはいろいろな経緯があるので、いろいろなことが解消の原因になり得るということにしておく。

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やっぱり鬱の大きな特徴は、苦しみを繰り返すことしか想像できないことだろう。この先にすごく楽しいことがある、ということが全然想像できてないと思うよ。

   毎日同じこと、辛いことの繰り返し。朝起きる、でかける、帰る、寝る…。学校、受験、就職、仕事…日々責任に負われて、辛い仕事をこなしていかないと生きていけず、あげく老化する。特に楽しみもない。あぁ、あの頃は良かったなぁ。
   普通なら楽しいことでさえ何か否定的に捉えてしまう思考回路がある。どんなに楽しくても、むしろ楽しければ楽しいほど、それが終わることが悲しい、意味が無いことが虚しい、しなければならないことは消えない、かつての楽しみには敵わない、ということが即座に見えて、よく楽しまないまま悲しみへ気持ちを流すこともある。

この二つの考え方は互いに原因と結果になる。つまり悪いループを生む。
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自分の複数の経験から言えば、問題の起こりは精神的な部分ではなくて、身体的に同じような生活を繰り返していたことが大きいと思う。身体は精神に影響を及ぼすのは自然なこと。例えば長期休暇で家から出ないで独りきり、逆に毎日外に出っぱなしでゆっくり独りになる時間が無い。外の空気を吸わない、移動しない、運動しない、食べない寝ない。
   →環境的なループにも、精神的に悪いループに結び付けてしまう場合もあれば、良いループに結びつけられる場合もある。結局考え方が重要なんだけども、少なくとも何事も広く循環しないと、視野が狭くなって楽しいと感じにくくなるということ。

繰り返しの中でも鬱になりやすい状況に昼夜逆転がある。夕方起きて昼近くに寝ると、一日中何もできないで終わる気がしてしまう。
   →でもこれは夜を活動時間外、無為な時間と思い込んで、いくぶん偏って否定的に捉えているからで、メカニズム的なこととは遠いように思える。日光を浴びないと肉体的に不健康とはいえ、実際に積極的に活動している内容は大したことが無いことが多い。
   逆に言えば、意識してない人が大半だけども、昼間起きる、出かけるということは、それだけで沢山の情報と記憶を含んでいる。問題を直接解決する方法にはならないけど、気分は晴れることが多い。

絶対的な生きる価値を持っている人ほどかえって鬱になりやすいんじゃないかと思う。絶対的な愛があって、それがもう叶わないと思ってしまったとき、その人には自分や未来に希望が無い。これは対処に困る。
   →自分の解決策は、そうは言っても未来には何があるか分からん、と考えること。そもそも鬱になるほど強い思想を持つというのはちょっと凄いことで、実は多くの情報を慮って気配りをして、自分なりの処理を行ってる結果だろうと思う。そうであれば、その想像力、思考力を使ってもう少し現実の幅を広げて考えてみると、未来には今まで以上の価値があって全然おかしくないことが想像できるはず。極端に言えば過去の幸せを再生、保存できる何かしらの技術もできることが想像できておかしくない。

簡単に言えば、まだ見てもない未来を自分の頭の中で決めつけてその全てに悪い解釈してるのが気分悪いのだからこの解決策は慣れればけっこう有効。なんで決めつけられるかって言ったらそれはきっと論理的、絶対的に、狭い視野だけで考えるからだろうな。意識で分かることは沢山あるけど、無意識を侮る理由には全然ならない。価値を沢山持ってる人ほど活発に生きていけるものなのかな。
   気分が晴れれば問題の解決になることも充分起こり得ることを認識した方がきっと良い。気分が良いと純粋にものを考えられなくなる恐れがあるのは分かるけど、なってみると意外とそうでもない。良い状態と悪い状態の比較ができるのは利点の一つ。気分が良い時と悪い時でどちらが上手に思考することができるかは瞭然。

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もっと簡単なこと言えば、規則正しく朝起きて出かけて誰かと会って早く帰ってテレビでも見て、あと日記でも書いて一日を整理して特別なものにすると概ね良好。正直、鬱は悪じゃないと思うのでそのまま悩んでてくれてもけっこう助かるんだけどね。単に鬱の気分が嫌いなら歌でも歌えばいいよ。何にせよ鬱病は数カ月で自然治癒するという医学的なデータがあるのでせいぜい悩めばきっと日本人らしい良い経験ができたと思えるようになるよ。


元気に生活するためとはいえ思想的に諦めを持つと、そこで子どもは終わるように思える。かと言って苦しんで悩んでも、それは諦観を含んでいるから子どもではない。本気で永久に死にたくない、これがやりたいと思ってないと子どもじゃなかろう、と思う。
もう鬱でもないのに鬱のこと考えるの疲れた。日々に結びつけて書くのが一番★☆★

2011年4月4日月曜日

21 天災の戦死と生きるの記

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警察庁は3日、2010年の自殺者統計を発表した。日本の自殺者の数は、前年から3.5%減った3万1690人だったが、13年連続で3万人を超えた。これは、1日に87人が自殺している計算になる。遺書などから推測した自殺原因は、半数が健康を苦にしたもので、約4500件が家庭の問題が原因となっている。http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2788589/6906889

2009年の自殺者数は2年ぶりの増加で前年比596人増の3万2,845人(男性:641人増の2万3,472人、女性:45人減の9,373人)。12年連続で3万人を超えた。40~60歳代男性の自殺が多く、自殺者全体の40.8%を占めた。職業別では「無職」が57.0%で最も多かった。(時事通信)

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だそうだよ。大地震で、大津波で、放射線被曝で、寒さやストレスやインフルエンザで亡くなる人があまりにも大勢いるのに、それでも、とりあえず今のところは、一年で自殺する人の方が多いということを思うと、勿論この震災を軽んじるつもりは全然無いけど、こんな緊急時でもなければ日本の文化や制度を改正することはよっぽど急務のような気がされていい。まぁそのためにその他もろもろの政策をしてるんだろうけど。

鬱って病気がブームじゃん。「鬱は歴とした病気なので、医師の治療が必要です。」「心が弱い、心の風邪、という認識は危険である。」「しっかりした認識と周囲のケアが重要。」と、言われています。

僕は病院で診察を受けたわけじゃないので説得力や自信に欠けるけど、きっと受診したら鬱症と診断されただろうと思う情態になったことがある。物事を否定的に捉えて、人生の意味とかを考えては明るい答えが出なくて悲しい気持ちになっていた。涙もろく、テレビを見て、子どもを見て、ギャグマンガを見て、景色を見て、朝起きて泣いていた。説得力出てきたかしら。

以下、ぼくの管見が鬱症について分かったようなことを言う。結論は…「鬱は病気ではない。」まぁ病気でもいいけど、そう特別なことではない。だってみんな鬱だし。

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