「積極的」ってどういうことかというと、自分はいつもイメージする形がある。つまり、今の現実の自分のイメージがあって、理想や空想がそれよりも大きくあって、その差、足りてない空白の部分を埋める、積むような、あるいはもう積まれているかのような物事の見方や行動、これが積極的な態度だろうと思う。何も無いところにも自分を広げていく性向が積極性なんだと。
逆に「消極的」と呼ばれるのはどういう形かといえば、現実の自分を過小評価してでも、それをはみ出さないように、その範囲内で収まる物事を見る、という態度だと思う。自分よりも小さいものに取り組むから、自分を幾分持て余す。実際には、積極的でも消極的でもないバランスの取れてるものの見方も、消極的と呼ばれることが多い。
自分自身の見方
いわゆる消極的な人は、自分や現実世界を正確に見ること、完全な正しい世界に固執して、それを超えればどんな取り返しの付かない危険があってもおかしくないと考える保守的な見方に基づいてるように思う。特に子どもや世間知らずな大人については、現実社会の多数決の正義ではなく、数学のような形而上の完全な世界があって、その中に絶対の正義があると信じきっている場合がとても多い。慎重派で、引き篭もりがちだけど、必ずしも成長を怠ける場合ばかりでもないし、自分の範囲内で、小さいけれども起伏に富んで完成度の高い仕事をすることが多い。
積極的な人たちは、自分でない部分に自分を見る想像力はあるが、そこに踏み込んで実行してしまう分、行動しない人たちよりも現実的に現実を見る。もしかすると単に自分を過大評価してるだけのことかも知れないが、とにかく危険を冒してでも外に向かって多くの経験を自分でする過程で、実際の自分や世界の形を知る能力は、正しい自分を見ることに専念する消極的な人たちに劣らず強そうに思える。
――――――――――
まぁそんな思想を持ってて。
今日言いたいのは、準備できるまでやらない、はみ出たことはしない、っていう態度をやめようと最近思いました、という話。
行動してから考えるなど愚の骨頂かと思っていた。だってちょっと考えればわかっただろうに前もって準備しないから取り返しの付かないぐらいの問題が信じられないくらいいっぱい起こってるじゃん。それは悪いことだと思うし、考えられる危機に対する準備は大きいものは特にできる限りしておくべき。
でも別に始めた後で間に合うものはどんどん後回しにして始めちゃえば良いと思う。というのも、実際に物事を開始すると、俄然勢いややる気が出るもの。急に現実的に考えが進んで、不足しているものや拙さを実感したり、体を整えたり新しいアンテナを張りだしたりすることが多い。その気に乗せて、欲しいものはさっさと調達すればいい。その気にならなくても、始めてしまって責任や焦りが出てくれば頑張ることはできる。
よくある話ではあるけど、実際にやってみるとなかなか考えつかなかったようなことがある場合が多い。そこで、準備されたものとの不具合が出るよりも、その新鮮な場で初めて必要なものを素直に感じ取った方が好い結果につながりやすい。まぁそのまま忙しさに流されて、特に平常時に必要の無いものは放置される恐れもあるけど。
これもよくある話だけども、対して精力的でもない人で一つのこともうまくできない人がいる一方で、忙しい人で全部うまくこなす人がいる。というのも、大雑把に言うと、いっぱいやる方が一つだけやるよりもうまくできるからだと思うんよ。自転車ゆっくりはこげないようなもん。とにかく回し始めてしまったらいろいろ取り込む力が出てくる。
簡単な話、竹馬に乗れる人と乗れない人で、どちらが逆上がりうまいかっつったら因果は分からなくてもとりあえず竹馬乗れた方が有利かなと思うやん。フィギュアスケートやってるハタチと自宅警備やってるハタチとでどっちが字うまいかっつったらまぁ平均してみたら前者だと思うじゃん。何でもできとる方が、他の全てのことに少なくとも悪い訳無い、と信じてると何でもとっても楽しくなる。まぁ、自分でも信じられない部分もあるので強くは勧められないけど。
そんなわけでとりあえず始めてみよう、というのが今の考え。
準備が不十分なばかりに途中で形式が変わってしまうのが芸術的でなくてどうしても気にしてしまっていたけど、今は、どうせ永久に残るものでもないし、どうせ数年後にはもっと進んだ技術に簡単に飲まれるし、やっていく中で変化していくのを見るのも面白いと思えるようになってずいぶん楽になった。昔のファイナルファンタジーとかテレビドラマとか音楽とか、低レベルですごく良い作品だし、背景に感じる時代も作品の味の一部になる。じじくせえ。
――――――――――
でここで、実装する力についてヒントになりそうな話がある。子どもです。
子どもって、100%理解して読もう、と思うと、ほんとに100%理解して読むらしい。
50m8秒台で走ると思うと、ほんとに8秒99で走る。窮地になると跳び箱も8段飛べる。これは自分の話。
しっかり勝つイメージすると、勝つ。もちろん能力に限界はあるけどさ。
子どもは、経験は少ないけど、あるいはむしろそのせいで、想像力豊か。
それだけじゃなくて、自分の想像に、現実の自分を合わせる力が半端無い。
これは単に若さゆえの能力ではなくて、ある世界観が前提としてあるのかなぁと思うんだ。子どもは、それが良いとか悪いとか、どれだけの可能性とかでものを見てない。それがそこにあるのをただしっかり自分の世界の一部として感じて、納得するまで同化するだけ。子どもにとって、世界は自分とは別の外の物ではなくて、すべて自分の感覚なんだから自分自身に他ならない。どれだけ変なものであれ、感情であれ妄想であれ、自分がその場所にその物を感覚しているという存在感ほど正しいものは無い。それを、何かの規格で思慮するのではなくて、ただ誤る術無く完全に感じることで自分を重ね合わせる。そんな理解の仕方をしているように思える。
だから、無理とか心のどこにも思いつかず、自分を理想に合わせる。これ即ち、子どもの「素直さ」と考えていいかも知らね。
まぁ、心と頭がそうなっても、実際に体がついていくのは若さゆえかも知らね★☆★
0 件のコメント:
コメントを投稿
( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。