2012年12月26日水曜日

63 言いたいことがあるなら言ってみなさい

2012年12月26日(水)はれもの

自分の意見を言うことについて書こう。

自分の意見を言うこと、自分を表現すること、自分で行動することに抵抗がある人は多いだろう。相手と意見が違ったり不利益になったりしてしまう、申し訳無い。こんなことを言ったら馬鹿にされるんじゃないか、自信が無い。自分がいなくても面白く動いていく世界にわざわざ介入しなくてもいいじゃないか、面倒くさい。一つでもそれらしい理由があれば、それは抵抗として働く。

本当に面白くて不自由無いのであれば、私が言うことは無い。本当は思ってることを言えないんであれば、言った方が良いって話をする。

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ぼくも昔からそういう部分があった。
幼児期はこうだ。どうせ何を言ってもこの人達は聞く耳を持たない。自分が馬鹿にされるだけならまだしも、彼らが誤って調子に乗ってしまうくらいだったら、何も言わない方がまだ世界にとってはプラスだろう。
小学生高学年。自分は何が偉くて人に横柄な態度を取っているのか。確かに自分は周りより賢い、この人生は自分の楽しみのためにある。でも、他人から同じような扱いを受けたら悪徳だと怒り狂うに違いない。謙虚になろう。
中学生らしい悩みもあった。自分は論理ばかりで考えてしまって、面白いことをなかなか言えない。自分が面白くても他人にとっては面白くないことが多い。逆に他人の行動は、彼らの中でも自分にとっても面白い。だったら何も自分が出しゃばることはない。
高校ではやっぱりこう考えた。そもそも自分の行動、自分の生命、世界の存在にはどんな意味があるのか。良いことと悪いことを決めるのは何か。善悪が無ければ何を基準に動くのか。

嫌われるほど他人に介入しまくる時期や、周囲とのうまいバランスを取る役をもらったこともあるが、基本的には受け身で奥手の聞き上手で生きてきた。だけどそれだけに、自分の数少ない表現は意外性を伴って周囲の中で輝き、記憶に残るものになっていたと思っている。やはり表現は少なくて満足していた。

そんなぼくだけど、ここ数年は積極的に行動を起こすことを心がけられるようになっている。それが当たり前の人には何の説明も要らないだろうけど、可哀想な私には時間がかかった。

高校時代から哲学的な思想に縛られて動けなくなった自分が日常生活になじむのには時間がかかった。いったん知ってしまった無知はもう知らないことにはできない。できるとすれば、完全に忘却でもするしかない。独りで訓練と空論を重ねて、やっと景色を眺めても人の言葉を聴いても頭痛や吐き気を催さなくなった。

だから自分の行動には中学レベルを超えた理由を持っている。特に他人の人生に介入するようなことについてはことさらだ。

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前置きはこれまで。自分の意見を述べる勇気について書こう。

■例えば、いわゆる哲学的で陽気な思想を持つこともできる。

自分の思うままに行動するのは当然のことだ。世界中、環境や能力の差こそあれ、誰もが自分の思うまま思って動いてる。そこに良いも悪いも無い。たとえ何も干渉したくないと思ったって、そこに存在している以上、動くも動かないも世界にとって何の差もない。大体、誰がいつどう考えて行動するかは天気と同じで計算できることなんだから、同じレベルで悩もうとしているだけ図々しい。どうせなら楽しい方向で行動したい。短い人生だ。

断言はできないけれど、否定もできまい。見えないものを否定しないのはサンタクロースと同じく子どもらしい素直さの一つであり、より永い科学の範疇でも全く同じことだ。

■でもこの思想はやっぱり根本的過ぎて現場に則させ難い。ここに、今までぼくが生きてきて得た現代的で陳腐な知識を三つ、加えよう。

意外と世の中馬鹿ばっか。子どもの頃思ったほど大人は頭良くない。とりあえず周囲の流れに流されて、なれ合って嘲笑って誤魔化して、普通に生活ができただけで調子に乗って、自分は何もかも分かってると本気で信じ込み、そのまま凝り固まって相手に押し付けて生きてる人が多い。どの局面でも、自分自身で考えることをしてない。他人を蹴落とすことを考えている。発想力も乏しく、新しいことはやっぱりやりたがらない。
 もちろん、世の中100%そういう人間だとは思ってない。そういう部分が平均20%ある人が98%くらいいるんじゃないかと思ってる。多く見積り過ぎかも知れないけど、普通に生活している分には一生知り合えない人種もけっこう多く同じ土地に暮らしているものだ。

もう一つは、意外と世の中みんなも謙虚だ。喋る人は喋るが、喋らない人は喋らない。何かおかしいと思っていても、最初に言い出す人にはなりたくない。みんなが言ってないからそういうものだと思ってしまう。「私もずっとそう思ってた」なんて後から言う。だからバカなんだよ。大きな組織でもそれは同じこと。

三つ目。意見が違えば議論しましょう。相手はバカだしこっちだってアホだから、意見は食い違って当然だし、上下関係があったとしても言い負かされるとは限らない。それに、議論は意外と憂鬱なことではない。理解できない相手の考え方を聴いて理解する機会であり、自分の価値観や理想を分かってもらう機会でもあり、相手に教えることになっても自分が教わることになっても大変有益なことだ。意見が違うからといって論争する必要は全く無いし、相手だって争いは嫌いだろう。明解に伝えて説得する話術、穏やかに話し合って進める技術を磨く絶好の機会だ。
 それに、若くて立場が下の人ほど意見は言いやすい。だって負けて当然だと思われてるもの。勝ったら気持ち悪いくらいだ。評価されるのは、その後しっかり学んだことを示す行動を取ることであって、何を考えているか分からない奴の方が厄介だ。


もし間違ったことを言ったら、訂正すればいい。言い過ぎたと思ったら弁解すればいい。怖くて意見を言えないだけの良識を持っているあなたなら、もし言葉が稚拙で言い過ぎたとしても、それを弁解できるだけの配慮がある。分からないことがあれば質問すればいい。多くの人が経験あるだろうが、一つの質問をすれば、五つも十も教わることになる。大切なのは行動して学ぶことだ。子どもと同じ。
 小さく小さく育てられた皆さんが可哀想。ぼくもその一人だけど、大きなことを想像すると殺されかけたものだ。今また生やそう。


分かったらキラキラ働けこのクソガキども★☆★