2020年5月13日水曜日

74 知のあり方についてのイメージ図

2020年5月13日(水) 晴れ

知についての基本的なイメージを俯瞰的な図として示す。



■表現方法について
 高い能力をもって文字で説明すれば正確性は勝るものの、高い能力をもって読まれ、広く結び付けられなければ価値は低い。また、不要に難解となる場合も多く、コストがかかる「正規品」のようなものだ。
 視覚的に具体例を示すことで、「現在の自分に近いもの」としてたやすく認知できる。問題としては、高い言語能力をもった機械が認識し難いことか。

■内容について
 知についてはずっと変わらないイメージだけど、気分が向いて描いただけだからあまり丁寧ではない。理解したければさらに具体例を自分で考えるべき。
 ここにまとめていない要素としては、①「宇宙際」的な考え方と、②根が交わる(無限遠においては等しくなる)考え方。気が向いたら追記するのかも知れない。
どう活用するかという示唆を付した点が浅瀬に寄っている感★☆★

Other Themes: 宇宙、幾何学

2020年4月16日木曜日

めも

あえて下書きにはしない。これをパブリックコミットメントという。

・私の能力、自分の特異さ、半生についてのデータ、やりたいこと、理想郷、思考テーマ
・正しいこと、論理

・忘れる能力。覚えるのも速い。引き出しの例え。

・大きな物の一部という理解 図形、理論、現象学
・いま、ここ、おれ
・注意力と頭痛、腰痛
・テトリスと人生

・「SAVE」(保存、承認、安全、確保、、抑制)
・「脳感覚」 …血流や活動の感覚。
・「衝動力」 …意志力とは対。
・「左右差の科学」 …タイヒミューラー的な。
・「QUESTION」(疑問、質問、好奇)Questionist, Questioner, inquierist、ページをまとめる。惜しまない。
・「知識の卸売」 …コネクトの仕事。最近はマッチングっていうのか。その他卸売について。
・算数の先生の台詞、睡眠への疑問の無さ、「Curious」、ガザニガの疑問、東大生の課題、、、
・知の歴史をたどれば、凡そ発展途上であることの理解。→「解明され尽くした」は幼子の誤解。ギリシャと変わらぬ現代。
・音楽と科学の両方に取り組んだ偉人が少ない件。読書と読譜、実践の例え。

思想の表整理
科学→個々の思想、の順で知に触れる方が深く理解、記憶、比較可。


Q.
・ゲーム世代の音感について リズム感と音感の話
・論文は無料で見られるのに本はお金がかかる?内容を公開したらだめ?図書館?
・室内の窒息→A.建築でクリア
・右利き→A.左脳という通説

2020年4月5日日曜日

73 「科学的根拠が無い」論の不明さについて

2020年4月5日(日) 雨と晴れ

前項の血液型についての話が長かったのでこちらに分けた。

「科学的根拠が無い」という慣用句を暗唱して高い所から一蹴する人々が大変多いが、この句が示すことはせいぜい「科学を信じる人にとって」「真実とは限らない」ということで、否定にはなっていない。否定とは「偽である」ことを証明するのだから、意味のある情報で、それこそ根拠が必要だ。

「真実とは限らない」ということは、真偽については新事実を一切示しておらず、真偽値0から1まで全ての可能性の幅を保持させている。これを「偽である」と誤認するのは未就学児くらいであってほしい。
 その中でも限りなく真に近い例としては、数学の「予想」などのように、論理的に証明はできていないだけでほぼ間違いないとされる命題だ。自然科学でも、観測はされているが、「その正体はいまだ謎に包まれており、現代の科学ではほとんど解明されていない」まま、表面の現象だけ技術として利用されることも沢山ある。日常の中でも、科学的な実験がされなくても「たぶん正しい」ことは無数にある
 「根拠が無い」ことは文字通りプラスでもマイナスでもない。無いなら探すのが科学だろう。

「科学的根拠が無い」という句が本当に否定し得る、つまりこの句と矛盾するのは、もちろん「科学的根拠がある」とされる命題だ。そういう「偽科学」に対して、否定を主張することは正しい。それでも、事象そのものの否定はやはり別の話だ。もし手相占いに科学的根拠が無いと否定しても、事実として手相と人生に相関が無いかどうかはまた別だ。



とはいえ…。そもそも科学において何を「根拠」「証明」とするかについては幅がある。当然、科学は帰納的な手法でしかあり得ないので、基本的には「解明」されずとも追実験によって「再現」されればよしとされる
 では「科学的根拠が無い」という慣用句はどの立場で言っているのだろうか。「実験はしているが再現性が無い」つまりほぼ誤りらしいとも取れるし、「単に実験データが無い」とも聞こえる。人によっては何の科学的根拠も無く言ってる気もする。なぜ科学についての話がこんなに分かりにくいのかも分からない。
 せめて「科学的に否定されている」と言ってもらえれば納得するのだが、、まあ知識が無いのかな★☆★

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2020年4月3日金曜日

72 血液型と世界観の関係について

2020年4月2日(木)曇

思い立ったので血液型について10年ほど考えていた自論をまとめる。
結論はごく簡明。

−−−−−−−−−−
血液型によって、「世界観」が異なる。
・A型 …神が世界。
・B型 …自分が世界。
・O型 …他人が世界。
・AB型 …A型とB型の世界観をスイッチする。たぶん。
−−−−−−−−−−

私の経験および観察と、俗に言われる血液型性格診断などの特徴を統合した結論が以上の短い言葉だ。完全に私の思想であり、出典などは無い。
やや詳しく説明する。

・A型 …世の中の大多数がよしとする規範だったり、よく言われる定式などを正しさの基準とする。いわば巨大で実態の無い「神」を信じ、神が作った固く抽象的な枠組みの中で行動するため、柔軟性は低い。やや男性的。「やるべき⇒やる」思考。
・B型 …自分の思考や感覚そのものが世界である。「やりたい⇒やる」ことが正義。「自分が」相手を友達と思っていれば「相手が」自分を友達と思っているかは関係無い。男性的な脳の使い方に近い。
・O型 …他人の考えや周囲の状況の中により快い解がある。複雑で変化する状況に応じて、価値が変わる、不定型。基本としては、自分単体の精神がゼロベクトルのため、「別に。」と言い、他人に「どうする?」と問いやすい。女性的な脳の使い方に近い。
・AB型 …正直サンプルが少な過ぎてよく知らないが、A型とB型の要素をあわせ持つのだと思う。


科学的には、体中を巡る血液の型が異なり、罹りやすい病気が異なったりするらしい。それ以上のことは知らないが、簡易な実験では子どもでも「行動」に大きな差は出るようだ。「性格」というときな臭いが、血液の違いによって、脳の成長や内臓の機能、思考や行動に影響が出るとしても何も疑わしくない

−−−−−−−−−−

以下、よくある反論などについて考える。

■「A型のイメージによってA型っぽくなる」説

つまり、社会的な像に自分を合わせにいくことで性格にも差が出るのだ、という社会的要因説。それ自体は心理学的に正しい。しかし生理的要因の否定にはなっていない。また、この説は要因に目を向けているので、「血液型によって性格に差が出る」という結果は認めていがち。

■「人間をたった4つのタイプに分類できる訳が無い」論

この呪文を嬉々と詠唱すれば、周囲を赤面させることができる。傾向という概念を知らないのか。血液型という1つの要素によって全ての性格が決定すると思っているのだろうか。無論、森羅万象は複数の要素が複合して動いている。

■「海外には血液型占いなんか無い」論

日本では、4つの血液型の人口がほどよくバラけているから占いとして楽しめるが、外国では、国民の8割が同じ血液型である所もある。そうすると、その国民のほとんどが同じような性格の持ち主となってしまう。そんなことはあるまい、という主張だ。
しかし、もしある国の大多数の国民が同じ血液型の持ち主で、みな性格に同様の方向付けをされているとして、「それはあり得ない」と結論できるだろうか。我々は「国民性」や「地域性」という考え方については当たり前に認めている。風土や歴史や遺伝子によって、ある集団が似たような志向や健康状態を持ち得るなら、血液型がその要因の一つになっても疑問は無い

■「血液型占いには科学的根拠が無い」論

長いし汎用性あるから次の投稿に書くわ。
言いたいことは、「根拠が無い」は否定ではないということ★☆★


Les feuilles: (不毛な)○○を生す
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2020年1月21日火曜日

71 ピクロスの曲をアレンジしての雑感

2020年1月20日(月)

 曲を作ってYouTubeにうpした。ゲームボーイソフト「マリオのピクロス」の曲をアレンジしたもの。作曲者をネットで調べたら、上野敏幸さん。作品のサイトにスタッフを書くべきだと思うんだよな。曲調としてはバロックだが、テトリスや「太陽の光はいつだって」のような民俗的な感じを入れた。

 近いメロディーでも聞こえた時だったか、ふと「ふわふわした曲あったな」と思い出したことと、どうにもそれが「不思議なもの」だったという感覚による好奇心がきっかけだ。
 しかし、幼い当時は、「不思議な感情」⇒「嫌い」だった。小説の読後感とか、理解できなくて何となく不安を感じるものは、「存在しない」ことにしていた。法律上は霊的なものは存在しないのに似ている。あるいは乳児にとって苦味を毒と認識するのにも似ている。この曲も取り留めの無さが好きではなく、マーチのような土着的とでも言うような分かりやすさを好む子どもだった。

 今は、不思議に対しては恐怖より好奇が優性だ。そして、情報があまりにも手近になり、行動につながりやすい。作業が完了するまで、2日間しかかかっていないことからも、いかに現代が便利な世界かが分かる。
・タイトルが分かれば、共有サイトにアクセスして曲が聴ける。
・音があれば、耳と脳が頑張って音名に変換して楽譜が作れる。
・楽譜があれば、DAWで各々の楽器に演奏させることができる。
 凡そ、長い時間をかけて科学技術と私の能力が進歩したことで実現したのだ。子どもの頃、GBを片手にピアノに向かった思い出が恥ずかしく、虚しく見える。
 演奏なんて生の方が良いだろうと言うだろうか。ではここまで完璧な演奏を誰ができるのか。DAWには遥かな利点が満載だ。

 というのも、作り始めて気づいたのだが、なんとこの曲は一般的な曲と比べて、全ての音が50セントズレている。半音の半音、つまり4分音に移調されている。中間だから、高いとも低いとも、変ハ長調とも嬰ロ長調ともつかない。それでも、DAWにかかればピアノの調律まで一瞬でできる。

 4分音だけで作るという発想にも驚いたが、もしかして自分が感じていた不思議な感じもここに一因があるのでは、と思い至る。もう一つ、もしかして、他にも一般的な音楽とはピッチが違う曲がレトロゲームには多いのではないか?だとしたら、ゲーム世代の音感はズレているのでは?あるいはものすごく柔軟なのでは?絶対音感のある人はゲームに辟易としているのだろうか?自分はリズム感に対して音感が良くなかったり、電子ピアノのピッチを変えて遊ぶのが好きだったりするのはここに一因があるのかも知れない。そんな次の好奇心が生えている。

 もともと、なぜ音が12個に分かれているのかは甚だ疑問だった。太陰暦のように13でも良かろう。虹のように国によって違っても良かろう。今は、人間の能力に最もマッチしていたのが12個だったのだろうと理解している。音楽家にとって、12個以外の音を平等に扱うのは極めて難題なのだろうとは思うが、いずれ凌駕しては懐古する時代も来るのだろう。

 4分音だけでできた曲について考えると、全てが歪んだ世界なので、現実にはあり得ないファンタジーというか、文字通りのパラレルワールドのような感覚が得られ得る。また、こちらに慣れると現実の方が歪んで見えてくる。ヒプノディスクを凝視していると、現実の静止しているものが歪んで見えることに似ている。さしずめ、ヒプノトーンとでも言えるだろうか。既にそういうものは無いのだろうか。

連休中の不用心な好奇心に苦笑い★☆★

Les feuilles:アキレスはキレるとヤバい、長フロー
Other Themes:4分音の世界、ゲーム世代の音感、ヒプノトーン

2020年1月18日土曜日

70 情報の発信は整然としていなくてよい旨

2020年1月15日(水) 初雨

引き続き、書くことについて書く。「本を読む本」に近い響きだ。
だいぶ間が空いてしまったのに再び書くことが全くためらわれない自分の鈍感さに感動する。今書きたいから書くのだが、客観的にも問題が無いと判断をした。

 我々は日に日に、直線的に寄り道なしで個々の情報にありつくようになった。頭に浮かんだ思想に対して、アラカルトのように、周辺との連続性にとらわれずに情報を入手できる。
 音楽はCDではなく、1曲単位でダウンロードする。電子辞書やWikipediaで知りたい言葉を一回で知り当てる。それでは周辺の情報が入ってこなくなるという批判もあるが、事実として、情報同士の連続性や関連性を省いた検索方法が増している。空間に情報の点が存在していれば事足りる。
 だから。同じ話題に長い時間が空いても、複数の話題が短い時間に林立しても、情報の引き手には何ら問題無い。辞書のように整然と並べなくても、気の隨に情報を生み落とせば、脈絡は利用者が勝手に編める。電子的な情報の遥かな強みは、容量と、正確な検索能力だ。そういうわけで、長い時間が空いて話を続けても問題無いという判断となった。そもそも定期的な読者などいなかった。

−−−−−−−−−−

 このアラカルト方式の善悪については判断しかねる。むしろ、情報が作者の意図を伴うパッケージではなく、方向の無い点のまま見ることができるなら、各々が新鮮な解釈を楽しむような潮流が起こるのではという期待も大きい。余談だが、子どもに星座を自由に結ばせるような教材があったら楽しいと思っている。

 長い時間が空いてもよいと言ったが、むしろ近年では、回顧がブームになっている感じがする。自身が体験することと、時間を空けることがそろって初めて得られる贅沢な楽しみだ。考えてみれば、音楽のモチーフにしても、マンガのキャラクターにしても、お笑いのネタにしても、忘れた頃に再登場することへの無条件の喜びのような気持ちは、どういうメカニズムなのか、大変に興味がある。記憶というよりも、忘却についての神秘を感じる★☆★

Les feuilles:
ありつく、知り当てる、引き手(情報を検索する者)
Other Themes: 
星座結び、忘れた頃に再登場

2020年1月15日水曜日

69 情報の保存の仕方について

2020年1月14日(火) 晴れ

さて
少々間があったが、書くことを続けてみる。

 言いたいことが雪崩れる程あって困っている。情報が多過ぎて上手に整理できず、有意な形を取れなくなりそうだからだ。

 そこで、形式をより柔軟にする。慣習に倣わず、より正しいと思われる形を採る。
要は、本の章のように、パッケージとして1つ1つの話題と結論を記していくことを捨てる。分量、結論、不変性、連続性などを持たなくてよい。正確性の強度も高くなくてよいが、できる範囲で正確に書く。
 このルールで情報を記録していくことにする。筆を止めることを止める策として、「後で編集可能」だから「リスク無しでとりあえず行動する」モードにするということだ。よくある話。

 一方で自由には危険が伴う。例えばツイッターのように字数制限があれば、そこに「合わせにいきたくなる」ことがある。字数制限などの「形式」があることで、行動へのモチベーションが発生し得るということだ。世のことごとは、制限を外して自由にする方が合理的と思われることがあるが、自由のためには都度自分で考えるという労働が必要となる。「自由」を扱うことは技能だと思う。大人になるにつれ、規範に則ることがいかに前頭葉の働きを節約して「合理的」であるかを自らに理解させることが普通だ。

 つまり、自由が危険となるのは、それを扱う能力とモチベーションが弱い場合。逆にそれらが充分な場合には、既存の枠組みは脱却すべき枷となる。要は、「場合によって使い分ける」が最適と思われる。ありふれた話。
 私もそうだが、物事を一辺倒で片付けたがる者は多い。「固定観念は悪」「型にはまるのは良くない」という観念自体が固定された形骸にしか思えない。学術的な研究でも、「場合による」ことを無視しているものが多過ぎる。

 さて、そんなルールを新設したものの、これは単に許容を広げただけで、結果的には今まで通りに書くことを助長するはずだ。逃げ道をセットする、敷居を下げるだけで、人は動くものだ★☆★

Les feuilles:
押して(副)、籤売りの少女、一辺倒(出所は毛沢東)
Other Themes:
合わせにいきたくなる心理、場合(前提条件)分け、賢い逃げ道の例