2012年9月29日土曜日

59 反平論ー平和は例えば零和

2012年9月27日(水) 曇のち涙

ここ数年、平和を弊害に思う風潮が高まっている。私個人の中で。教育と絡んで雑記をひとつ。

自分の育ちが悪いと思ってる。でも、とりわけ貧乏だったわけでも酷い虐待を受けたわけでも教育を受けられなかったわけでもない。じゃあ甘やかされて育ったから考え方が贅沢なのだ、と言って聞こうともしない大人達の世の中で育てられたから悪いと思ってる。

比較的平和な世の中で、比較的恵まれた生活をしている人達の中で、著しい学力低下、失業、鬱病、自殺が蔓延している。それぞれの割合を考えれば日本の若者の8割近くが少なくともいずれか一つに当てはまるのではないかと思ってしまう。

比較的恵まれているというような実感の薄い知識はプラスにならない。大切なのは個人が実際に感じる落差だ。動いていないものを人間の眼は見ることができないのと同じように、平らで変化の無い世の中で自分自身すら動かずにいれば、何も感知することができないし、感情も持てない。人肌のお風呂には感動しない。下を見るのは優越のためではなく、上に引き上げるため。

逆にいわゆる悪い環境でも、伸びていく人はいる。もう一度言うけど大切なのはその成長した分であって、変化が無いことにはいわゆる良い環境も良いと感じられない。他と比較することが意味が無いと言ってるんじゃなくて、身近で実感を伴うようなものでなければ健康な精神を保たせるには足りないということで、他との比較自体は自身を認識するためにはとても有効なのは周知の通りだ。

もう一つ加えよう。どれほど劣悪な環境を考えても、何者かと意思の疎通を図ることはほぼできる。その内容は、突き詰めれば物質的な環境とは無関係かそれに近いものになると思う。また、人生経験が豊富な人ほど思想や知恵を得るきっかけこそ多いものの、可能性が大きいだけに過ぎないし、思想や知恵というものは想像力の上に成り立っているに過ぎない。物質的な条件は無関係に近いと考えてる。

平和なこの環境において、

僕は自分の育ちが悪いと思ってる。生まれたところからどれだけ伸びたのか、そもそもどれだけの可能性があったのか、他と比べて一体どのくらいのレベルなのか、と考えたときに、少し考えるだけでも深く考えこんでみても残念としか言えない。

この年になると、教育についていろいろ考える。思考や実験の際には、余計な条件を捨象するのが学問の基本だ。人間という生物の核心的存在で、純粋な反応を大量に観測できるものとなると、子どもだ。しかもこれは万人が自分自身で経験したことまである。僕が子どもを愛する理由は大体こういう場所にあるんだけど少し別の話。
 考えを巡らせる。自分が子どもの時はどうだったか…。自分が子どもの時におかしいと思っていたことは、今考えてみるとどういうことだったんだろうか。あぁあの時お母さんが言ったことが全部正しかったと思う日が来る、アンタも大人になれば分かるから憶えておけと言われて、今大人になりつつある。大人という資格を武器に、責任を持ってどう分かったと言えるのか。冒頭の通りだ。

主な話は終わり。蛇足かも知れないが、僕は、幼少期から親の教育方法に対して、あるいは周囲の人間の言動に対して、不可解だと思っていた。しかし彼らと違って、あくまで意見をぶつけあうだけで、否定は一切しなかった。今も基本的な考え方は変わっていないし、世間的にはそれが大人だと認められることになっている。

繰り返しになるけど、僕は幼少期から親の教育が不可解だった。大人になるまで判断を保留していた。今は悪だったと思っている。人によってはタブーな物言いだろうが、自分で自分が可哀想だ。可哀想な人種を差別して絶滅するべく突き動かされた偉人は数知れない。


自分より他人を殺したい20代前半の若者の愚痴でした。頭の悪い人にこそ理解できなかったら意味ないもんね★☆★

2012年9月17日月曜日

58 太陽に向かってどこまでも

2012年8月30日(木) 猛暑残暑

2012年8月25日、26日に行われた、劇団ひまわり創立60周年記念公演「コルチャック先生と子どもたち」仙台公演を観覧してきましたので鑑賞文。めっちゃ書くの遅くなってしまって残念。

前項に書いたんですが、とある役者さん目当てでわざわざ仙台まで行って、少し交流もあったんですが、今回は舞台の内容重視で書いていきます。友人と一泊して、25日の夜、26日の午前、午後と、全部で3回。出演者は、白組、白組、紅組で構成されてた。

休憩を間に挟んで、全部で2時間半だったっけか。ブザーの代わりに鐘の音が鳴っていたけど、あれはホールのものなのか舞台に関係するものなのか。「ソミソミ/レファミミ/レソミレ」だったと思う。トゥーファイブからの偽終止かと思ったらまさかの半終止で本編に繋がる。


あらすじ−−−−−−−−−−
・・・時は20世紀前半、ドイツの空の下。ヘンルィク・ゴールドシュミット・ヤヌシュ・コルチャックという初老の男がいた。彼は児童文学作家、小児科医、子どもによる雑誌の編集長、ラジオのパーソナリティ、そして孤児院「みなしごの家」「ぼくたちの家」の院長でもあった。著名人として多忙な日々を送る彼だが、暇を見つけては二つの孤児院を行き来して子どもと寝食を共にし、子どもと共に生きるということを何よりの幸福、そして最大の誇りとして生きていた。子どもの権利を尊重して裁判や自治を行わせたり、冬にはキリスト教のクリスマスとユダヤ教のハヌカを一緒に祝って人間にとって普遍的なものは何かについて語った。

1920年。ナチスが政権を執り、反民主・反共産・反ユダヤ主義が社会全体に広まり、ユダヤ人を非難する風潮が強まると、ユダヤ人であるコルチャックはラジオ、雑誌、ポーランド人の教育からも手を引くことを強要され、「ぼくたちの家」の院長を辞任する。生まれも育ちもポーランド、話す言葉もポーランド語であるにも関わらず、ユダヤであるという理由で。

1939年になると、ポーランド国内に居住するユダヤ人、コルチャックと「みなしごの家」の子どもたちは、2km四方を高い壁と有刺鉄線に囲まれたゲットーに強制収容され、腕にはダヴィデの星の腕章を付けることを強制された。極端に狭くて不衛生な地域で生活を管理され、飢えと寒さをしのぐのに精一杯な中でチフスと呼ばれる感染症が流行した。孤児院の教員は人々が道端の死体を石ころのように跨いで歩く光景に腐心するも、しなやかな子どもたちの明るさに救われながら寄付を募るために這いずり回って強く生きていく。

1942年7月22日、奇しくもコルチャックの誕生日に、政府は労働力にならない弱者から順に、ユダヤ人を一日6000人ずつ再び別の場所へ移送するという「大行動」の指示を出す。コルチャック達が移送される8月6日、200人の痩せた子どもの行進の先には、家畜用の汽車があった。乗り込もうかという時、政府が数々の功績を認めてコルチャックに下ろした特赦が届く。…しかし子どもたちも一緒にではないことが分かると、特赦状を地面に落とし、コルチャックは子どもたちと一緒に汽車に乗り込んだ。彼らの永遠の旅立ちが始まったのであった。
−−−−−−−−−−

脚本やパンフレットに即して書いてみましたが、あくまで粗筋。Wikipediaなどで調べるとさらに沢山の経歴、功績、関わった人々、逸話、心に響く言葉などが詳しく書かれてますので良ければ味わってください。正直、なぜもっと有名になっていないのか不思議なくらい、各方面での偉業があります。軍医の経験、小児科の開始、コルチャック賞、惑星コルチャック。

コルチャックは処刑される数日前まで日記を付けていたようなので、おそらく役名は全て実在した子どもの名前なのかな。「みなしごの家」の教員「ステファ」、「ぼくたちの家」の教員「マリーナ」は、それぞれ孤児院の共同創設者として実在するし、孤児院の卒業生で陰ながらホームへの寄付を続ける「イレーナ」という女性は、おそらく沢山の子どもをゲットーの外に逃したことで有名なイレーナ・センドラーか。

舞台は、コルチャックと子どもたちが汽車に乗っているラストシーンから始まる。ユダヤ教のハヌカの祭りの日の少女フリーダと兄ユゼフの会話を回想しながら。…つまり、途中の回想シーンを挟んだラストシーンを初っ端に持ってきたわけで、3回観てやっと理解できたわ。

続いてその少女、フリーダが初めてホームにやってくる日。この日もクリスマスとハヌカを祝う日だった。ヤコブの初セリフ「両方楽しめるんだ、いいだろ、僕はヤコブ!」孤児達が生活の中で自然にお互いを思いやっている。

また時間が少し遡って、コルチャック、ポーランドの孤児院「ぼくたちの家」辞任のシーン。事務局員も少し前まではコルチャック先生を自慢にしていたのに、世の中の情勢がユダヤ人にとって不利なものに変わってきたことで、突然態度を変えて辞任に追い込む。しかしただ世論に流されているわけではなくて、寄付を募って運営している孤児院だから、頑を張れば立ち行かなくなるという判断をもって、事務局としても苦渋の要求をしたわけだ。
マリーナは「先生との意見の違いはあって当然。むしろそれゆえに刺激的なアイデアが生まれるのだ」と強く反対するが、コルチャックは子どものことを第一に考え、要求を受ける。「ユダヤだから」という理由で重圧を受ける現状に対し、「人々は不満をどこかに集中させたいだけだ」と憤慨するマリーナに、紛れもなくポーランド人であると同時に紛れもなくユダヤ人だと公言するコルチャックは、自らの子ども時代に宗教差別された経験と世間への疑問を言い残して「ぼくたちの家」を後にする。

子どもたちの身体測定のシーン。13歳以下の男の子たちが裸んぼで走り回って歌う。「やってみたかったんだ、一日中裸んぼでいるの。だめ?」コルチャック「そうだなぁ……悪くない!・・・エヴァが詩を読み、アブラーシャがヴァイオリンを弾く。ゾフィアがそれに合わせて踊り、フリーダが歌う。人々はパンやミルクをくれるだろう。そうしてどこまでもどこまでも歩いていくんだ。」ヤコブ「どこまでもどこまでも歩いていくのかあ!」
違う脚本家の公演でも語られたこのフレーズと「太陽の光はいつだって」の歌で、子どもたちとコルチャックが自然の中で活き活きと幸せに生きる理想的な情景が描かれる。最も好きなシーン。

ヤコブ「なんで先生は『小さな瞳』の編集長を辞めちゃったの?ラジオも辞めちゃったし…」「それは…」「…ユダヤ人だから?」「いや違う違う、そろそろ若い人に任せようと思って!」「先生、髪はないけど、若いと思うよ!先生がみんなに話してる時の顔は子どもそのものだもん!あれは大人の目じゃない、純粋な少年の目だね!」「はっはっ、少年に言われるとはな!」「同じ少年でも、僕は先生ほど純粋じゃ、ないけどねっ!」「あぁ、そうかいっ」ヤコブは将来世界を変えるジャーナリストになるつもりだ。

ヤコブは「みなしごの家」のリーダー的存在。きっと舞台の外でも年上にも年下にもかなり信頼をおいていたんではないだろうか。紅は紅のヤコブ、白は白のヤコブが子どもたちのまとめ役だったのだろうとしみじみしていた。実際には孤児院は7歳から14歳という最もピチピチした時期の子たちがいたらしいが、舞台では4歳くらいの子もいた。舞台上で落ち着かない様子も、逆に子どもらしくてリアルだったように思う。セリフが無い部分も子どもたちは自由に演技しているのが好かった。

ある日、ケンカが発端になって子どもの裁判が始まる。コルチャックは、国連の「子どもの権利条約」の基になった思想の実践者で、子どもを大人の考えている以上にしなやかで強いものと考え、自治を行わせていた。裁判は形式を遵守して進み、「この件は重要な問題ですので、次回までに皆さんもよく考えておいてください」と閉廷された。性急過ぎる現代に参考にされたい。

ゲットーに収容される際に抗議して逮捕されたコルチャックだが、ホームの卒業生イレーナの用意した保釈金で帰ってくることができた。気遣う子どもたちに明るく話して聞かせる。「牢屋には泥棒のお頭も殺人者もいた。でもみんなお話が大好きだった。どんな人も昔はみんな子どもだったんだ!」星の王子さまなどでも言われるこの金言。全人類に当たり前の思想になる日はくるだろうか。子どもたちにはどう聞こえるのだろうか。

エドナが見当たらない。移住する際、この子はアーリア系の顔立ちだからバレないだろうと、ステファ先生がポーランド人の孤児院「ぼくたちの家」に引き取ってもらった。「じゃあ、はっきりユダヤだと分かる子どもはどうするんだ、私達がより分けるのか、この手で!そんなことできるか!」「子どもたちは私達と一緒にいるのがいいんだ。その方が子どもたちも安心できる。」…子どもたちの安全よりも安心を取るということか。難しいところ。

ワルシャワ・ゲットーの市長であり、ユダヤ人評議会議長のチェルニアクフに寄付を頼むコルチャック。実際口が達者だったかは知らないが、一言一句大変勉強になるので、憶えてるままに掲載させていただく。「寄付は十分していると思うが?」「あなたは特に子どもへの援助に努力を惜しまない。他の人ではこうはいかない」「あなたにそう思ってもらえるとは光栄です」「今光栄とおっしゃいましたね!そうです、子どものために何かをするということは、我々にとって共通の、義務であり責任であり幸せであり、光栄なことなのです。さすがよくわかってらっしゃるぅぅぅ(抱っ」「…も、もちろん子どもへの援助は惜しみなく。」「いやー良かったあなたが寄付を無碍に断るような冷徹な卑劣な人ではなくて、では現金にしますか、それとも、現物で?」「現金で…。」「慎み深いですなー!遠慮なさらずに」「じゃあ…3000」「なんのなんの、もっと堂々となされば良い!もう一声いきましょう」「…分かった、5000だ!」「あなたがこれからも、継続的にこの幸せを味わえますように。私達はいつも必要としています。現金でも、現物でも、日用品でも、あらゆるものが役に立ちます。…いつも、ありがとう。」

自分の宝石を売り払ってこっそりとホームへの寄付を続けるイレーナは、孤児院での生活を振り返る。卒業してから気づいたが、いつもみんながいて、一緒に食べて寝て笑って…先生がいるホームでの生活は宝物だった。だから、汚れてしまった自分はもう帰れない。子ども時代の大切さを理解し、自らを抑え、身を削っても守ろうとする大人の一人。

財産の尽きたイレーナは、とうとう自らが歌手として働く酒場にコルチャック先生を招く。そこには貧困に苦しむゲットーの中で、闇の商売で一財産築いた男たちが毎晩ウサを晴らしにやってきていた。驚くドクター・コルチャックに代わって店主が巧みな話術で男達に寄付を募る。中でもゲットー一の金持ち、ガンツヴァイクとコルチャックとの対話に重大な思想が詰まっている。「言わせたい奴には言わせておけばいい所詮負け犬の遠吠えだ」「役に立たないクズは死ねばいい。これは淘汰だ、しょうがない。そうでしょ先生」「子どもたちを救えるのはこのガンツヴァイクだ。カネでできることがあれば何でも言ってくれ」コルチャックの対極であるガンツヴァイクだが、決して悪者ではない。力を持って強く生きようとしている。

コルチャックをゲットーの外に出そうと周りは躍起だが、本人は聞く耳を持たない。「(私だけ特別ではなく、)誰もが一人しかいない、誰もが生きなければならない。」なぜステファはわざわざ一旦出ていたこのホームに危険を冒して戻ってきたのか。他にもゲットーに入りたいと言っていた教員もいた。こんな時だからこそ、大人は子どもたちと一緒にいたい。大人が子どもと一緒にいたいのだ。子どもは底知れない気力や神秘を持っている。このことを知って生活の一部とする大人は残念ながらあまり多くない。子どもの力で世界は変わる。

卒業生で教員のエステルは、コルチャックが死にゆくみなしごを題材としたタゴールの「郵便局」の劇を子どもたちに練習させていることに腐心して、なぜ死への準備をするのかとステファに問い詰める。「死はいつかは必ず、誰にでも訪れるものなの。だから、せめてその時を尊厳をもって受け入れたい。生きることを諦めているのではなく、これは生き方の問題なの。何のためにあんなにボロボロになって寄付を集めてると思うの…生きるためよ!生きるための闘いなの。」若い大人であるエステルが理解して受け入れるのは難しい話だろう。死への観念は特に幼少期、環境によって非常に大きく変わるだろう。コルチャックは子どもたちに死と正面から向き合わせることを選んだ。

皆で迎える最後のハヌカ。祭りの最終日はホワイトハヌカとなった。食料も無く侘しいが、子どもたちは歌を歌って祈りを捧げ、コルチャックは世界の異なった人種や宗教の違いを認め合うことを説く。劇中何度も歌われる「ホームのうた」は、小さくて明るい子どもの歌のようだが、歌声は力強く、しかし陰を隠しきれない。子どもたちの魂の叫びは、辛辣なまでのメッセージを持っている。「ぼくたちの家」の住人も身を隠してやってきて、緊張の中での最後のクリスマスとハヌカの祭りは終わる。

1942年、強制移送の緊急指令が下されたが、ユダヤ評議員のチェルニアクフは頑としてサインをしない。ドイツ軍の無理な要求に耐えてきたことを酌んで子どもだけはと懇願するも、要求に協力するのは当然の義務だと一蹴され、それまでの努力が無駄だったことや自らの無力さを嘆き、用意していた薬で自害する。わざわざゲットーに残って人質を取られてまで人々に尽くした彼だが、考える最善の策として無理な要求を飲み、逆に市民からは無力だと罵られるようになって、正に哀れな板挟みだった。

最もドイツ的な役としてラストシーンまで登場するベルガー中尉。行いこそ非道に徹しているものの、忠実に自分における立場や正義を貫くだけでなく、決して暴力による解決に終始しようとせず、他人を思いやる常人の心すら見え隠れする描かれ方だった。終始一貫して、様々な個性で様々な立場の人の心理が巧みに表現された作品だった。その人間が複雑にぶつかり合った結果、世界大戦が起こり、望みもしないのにお互いを滅ぼし合った。簡単な話で済むわけがないのは当然だ。

「私は君たちに神を与えることはできない。私は君たちに祖国を与えることはできない。私は君たちに人間の愛を与えることはできない。自分の中に見出し、選び取り、学び取っていくものだからだ。だが、唯一つ、私が君たちに与えられるものがある。それは憧れだ。未来を生きようとする希望が、君たちを神へ、祖国へ、愛へと導くだろう。」

歌いながら客席を縦断して行進。

「永い旅になるかも知れない。でも僕たちならできる。・・・エヴァが詩を読み、アブラーシャがヴァイオリンを弾く。ゾフィアがそれに合わせて踊り、フリーダが歌う。人々はパンやミルクをくれるだろう。そうしてどこまでもどこまでも歩いていくんだ。」ヤコブ「どこまでもどこまでも、歩いていくんだね!」「太陽に向かって、どこまでもどこまでも、歩いていくんだ…!」




思い出してもまだ泣ける。かいつまんだつもりが感想が長くなりました。そもそもこんなに記憶に残っているのは、3回観たとはいえ驚いた。芸術というものは、一つの作品に沢山の思想が描かれているのだと知った。しかしバラバラではなくて、多方面から見ることでそれぞれの生き方がよりありありと描かれる。脚本も演技も本当に素晴らしかった。

3度目になっても、お母さん方と一緒に泣いた。子どもの成長、素直で明るく強い生き方、殺されゆく運命、子どもと最期まで共に生きようとする姿勢。子どもを育てる親なら楽しいことも辛いこともいろいろあっただろうしこれからもあるだろうけど、この美しい心のあり方を描いた舞台に立ち、友と一緒に号泣する子どもの姿を見て、ただの演劇ではなくて、今ここに彼らの成長がある奇跡を感じて、どこまでも大切な人への想いを裏切らずに生きていこうと思えたのではないだろうか。強く育った子どもをもっと尊重して、小さな世界に落ち着かせてはいけないと思えたのではないか。自分は親でも何でもないのになんで泣いてんだ。


・・・・・・
「コルチャック 子どもの権利条約」「コルチャック先生のおはなし マチウス1世」「もう一度子どもになれたら」「子どものための美しい国」
以上の書籍を取り寄せてしまった。ぼく本なんかまるで読まないのに。ましてや小説など。でも知らないわけにはいかない。
永い旅になるかも知れない。でも僕たちならできる★☆★



57 向陽紀行「コルチャック先生と子どもたち」

2012年8月30日(木) 猛暑残暑

2012年8月25日、26日に行われた、劇団ひまわり創立60周年記念公演「コルチャック先生と子どもたち」仙台公演を観覧してきました。今回は紀行文ですね。めっちゃ書くの遅くなってしまって残念。

舞台そのものの感想などを次項に回しました。今回はもっと偏った記事です。

ブログではあまり多く触れてこなかったが、僕が今現在この世で最も尊敬し、愛でることやんごとない人物である、小川向陽という齢十三の子役がいる。2009年春に開設したばかりの劇団ひまわり仙台エクステンションに所属するが早いか、2010年春からは本人も憧れのテレビ番組であるNHKEテレ「天才てれびくんMAX」のレギュラー出演を果たす。番組の全収録終了の直後、2011年3月11日木曜日、地元仙台にて東日本大震災に遭遇し、以後被災者である自ら被災地を元気付けるために走り回る。2012年春に地元の中学校に入学、BS-TBS「ニュース少年探偵団」などに出演中。同年7月に本格始動したブログ『i-KOYO』では明るい日常を赤裸々に綴っている。

彼がオーディションに合格して出演した舞台「コルチャック先生と子どもたち」は、劇団ひまわりが東京や名古屋など全国でオーディションを行なって2011年夏に公演したのですが、震災の影響で仙台公演だけが1年先送りになったというわけです。

つまり僕は、小川向陽くん見たさに宮城県は仙台市まで慣れない新幹線に乗っていき、卒業旅行以来で遠隔地での外泊をしてきたのだ。話題にしている小川さん本人とは対極に位置するくらい内向きに育てられたもので、何十回となく仙台駅と東京駅とを往来する彼にこんなこと知られたとあっては、ちょっと前まで2倍近くの年齢だった先輩としてあなはずかと言わざるを得ない。
旅にリンゴを携帯する21世紀。
それも、同行した知り合いに宿泊先まで全て任せて行ったんだ。今年の1月、初めて僕が向陽くんに会うきっかけを作ってくれた同業者、つまり向陽くんありきの友人なのだが。まぁ子どもの頃は普遍性を感じなくて社会科に全く関心の無かった僕も、二十も過ぎれば見えるものも変わってきて、旅行というものに漸く面白さを感じるようになりました。

向陽くん見たさに、とは言ったけれども、実は旅行への憧れが強まっていたのも大きな理由だった。それも、他でもない東北に。今でこそ優秀なファンである可能性を自負する僕ですが、実は向陽くんの存在を知ったのは番組終了も間近、3月になって学校が落ち着いた頃何気無く点けていたテレビからでした。元々その番組には否定的だった僕が、ただの一瞬でその美しさに囚われ、一週間の間に先輩ファンの間でも知られていない情報を多数収集していた矢先、かの大地震が起こった。愚かな僕はこれを、彼の「東北、宮城を盛り上げたい」という常なる言に関連の一端があると今でも信じ込んでいる。実際、一時は世間から心配ばかりされていた東北地方だが、時間が経過するにつれてその想いは愛着へと移行していったではないか。今では東北と聞けば身近で愛するべきものだと皆が思っているかのように感じるのは私だけではないはずだ。僕が彼に飛びついた時節を考えても、少年の強い想いが地球を揺るがしたのではないかと…謹みもなく考えている。
仙台駅前。向陽御用達の仙台七夕やジャズフェスのポスターもあるぅ。
さて、2日目の公演を観覧する予定で前日の25日に現地仙台に着いて世にも美味なずんだシェイク飲んだんですが、その日は特に予定も無く、初日の舞台を終えた向陽くんに会えるかも知れないと会場の下見に行くと、驚いたことに今から公演が始まるという。2日目とは時間が違っていた。予定外の3000円をケチる僕ではない。中に入る。

成人男性二人きりの長旅から休み無しで人生初の舞台観覧、それも我らが神の起こす奇跡を至近距離で目の当たりにするという世界中の一大事が突然やってきたわけで、気持ちの整理がつかない観客などお構い無しに悲しい悲しい現実の物語は、幕を開いた。

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舞台の内容については次項をどうぞ
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終わるや否や友人に握手されて「やったね!」の一言。序盤の向陽さんがパンツいっちょで走り回るシーンからの裸サスペンダーシーンに興奮したんですね、分かります!しかもズボンはけずにずっと抑えてたり、舞台脇の猛烈な着替えが間に合わずに上着の前が開いたままでしたからね!僕はアイヌ語で「〜という子を特に愛する」という意味の動詞「コヨマッパ」を気に入ってよく使うんですけどこれは何の関係も無い話。

向陽くんの役はヤコブという名の少年で、ユダヤ人の孤児院「みなしごの家」のリーダー的存在。子どもが出る場面では非常に重要な役どころ。演技が覚束ない子が多い中、舞台上で懸命に雰囲気を保とうと周りの子たちに促していた。妹のお兄ちゃんということもあって、「役」をもらうことでイキイキするタイプなんだろうと思う。
ここの二階に楽楽楽ホール。一階は太白区図書館など。
僕は当初、数百人しか入れないと聞いてて、出演者の両親が入ったら四分の一以上埋まっちゃうと焦ってた。実際小さなホールで、ご両親はいっぱいいて、全席自由だった。でもけっこう空いてた。どうやら一般向けというよりは、ご父兄向けの発表会という雰囲気だったようだ。親族、友人の他にはたぶん我々2人しかいなかっただろう。至近距離いいじゃない。
物販のおばちゃんから、全然売れてないっぽいTシャツを購入。いろいろ話し込んで仲良くなろうというところをなかなか問屋が卸さなくて半端になったけども、ここだけはと粘って本来の予定であった向陽くんの出待ち。さすが大物だけあってやや遅かったけど現れた。もちろん保護者同伴で。ちょっとキョトンとされたけど、嫌な顔はされなくて良かったです。端折って言えば、労って褒めて印象づけてアピールしてスキンシップしてまた会おうって言って別れた。僕はあんまりサインを好まないのでねだってない。御手手はすんごいあったかかった。友人は僕と向陽くんのやりとりだけで満足できるそうで、離れて見ていた。向陽くんは先輩方に大きく挨拶したり友達と写真とったりしてたー。

仙台の夜は全然涼しくなんかない。仙台駅の牛タン通りにある善治郎で夕飯をいただき、お腹いっぱい胸いっぱいで20分くらい歩いてホテルイン。24時間テレビみたいのやってたけど東北の放送ちょっと見て寝た。深夜に地震が起きて自分も起きると、ブログをマスターが更新してた。さっそくさっきの写真ー。

翌朝26日、ホテルで仙台のおいしいものいっぱい食べて、憧れの河北新聞も買って、南仙台などへ赴いて散歩し、午前の公演を観覧しにいった。向陽くんは白組のキャストだから、午前のに出ないならもうちょっと散歩してもいいんでないかと打ち出したけど、お金も払ってあるし観にいくことに。。。始まってビックリ、向陽さん出てるじゃないですか。任せっきりでよく調べもしないで訊きもしないで紅組だと信じ込んでた。これならもっと前の席にすれば好かったよ。昨日の公演時間といい、他力本願過ぎたのを反省した。
南仙台。穏やかで長閑で親近感あり過ぎ。

二度目の公演を観終わって感動冷めやらぬまま、更なるご家族さんにご挨拶。物販のおばちゃんにもご挨拶。誰のファンなの?て訊かれたので小川君ですと言うと、息子さんと向陽さんの写ってる写真をその場で見せてくれたです。震災で大変だったときのお話も伺いました。僕は初めて被災者の方から直接お話を聴きましたが、明るく振舞っていても深い傷は残っているみたいです。当然と言えば当然ですが、無力な自分を変えたいと思いました。

で子どもたちは舞台上で既に大泣きしてたので、ここで会ったらマズいと思ってご家族にもう一度挨拶してから去ろうと一人で行くと、「あ、今向陽が」「いーんですいーんです!」「天てれ時代のサイン入りのハガキを」「いやいーんで…いーんですか!!?」「今日も観にくるって聞いてたので〜。」期せずして再会し、サインなどいただいちゃいまして友人も握手などしてもらっちゃいまして。前日出待ちして良かった。無言で去らずに良かった。向陽くんの目も潤んでたけどみんなをなだめてたって言ってた。むしろ泣いてよいのだよw

でその辺で御飯食べて、歩き回って旅の写真を現像し、花束買う時間無くなって、3度目の公演、しかも今度こそ向陽くんの出ない公演を観覧。こんな経験は後にも先にもなかなか無かろう。観てみると、それぞれ違いがあって面白かった。。が、どうやら白組の子もチロッとだけ出るみたいで、彼も歌の場面にチョロッと現れた。眼を擦ってた。

3度目、しかも向陽くんの出番の少ない公演にも関わらず、お母さん方と一緒に泣いた。友人は昼間の向陽さんとの握手をリピートして2時間過ごしたらしいけど、事前に映画まで見てきたならしょうがない、セリフメモりは名案かも。単純に感動したので劇中歌のCD買っちゃったりして、新幹線の時間も近いので軽く挨拶して早々に去ろうかと思っていたけど、今度は友人の方が出待ちをと言うので予定の電車を遅らせて待ってたんだけど祝杯を上げているのか暫く来ず、閉め出されて時間も無くなって待ちぼうけしてるとこを見られただけで半端に帰宅。いろいろ言いたいことあったのになぁ…不燃。

基本的にスタッフは保護者の方が担っているようで、物販のおばちゃんの息子さんもテレビ出てるって言ってたけど事務所には入ってないとか。覚え違いでなければたぶん相原賢くん…と思って検索してみると、向陽さんも出演していた河北新報社の震災ドラマの出演者リストが出てきた。間違いでないといいんだが…しかし事務所にいないんじゃお礼のお便りも送れないなぁ。あぁぁ。

帰りの車内は辛かった。向陽殿との別れもだけど、むしろそれまで彼一人の人生に祈りを捧げていた私は今や、世界中の子どもや被災地のことや自分がどうしていこうかということばかり考えざるを得ない心境だったので大した痛みではなかった。実際、数日間は舞台を思い出したらいつでもどこでも泣ける情態だったし、CDも怖くてまだ5回と聴いてない。東北本線の発車メロディが、前日テレビで聴いた菅野よう子作曲の復興支援ソング「花は咲く」だったことに気づいた。
「ぼくも先生のような教育者になります。一緒にがんばりましょう。」

前回会った時は状況的に話しかけただけで水準高かったけど焦り過ぎたという反省があったが、そこはいろんな人と気持ち好く会話することを日々練習してきた成果が出た。また、周囲の人にも積極性を持たせるという目的も果たした。その上で、両方の守りたい正義がぶつかった時どうするか、これは今回実際にぶつかった問題であり、あまり学べなかった問題だ。

もう一つだけ。お友達やご家族と仲良くなるという目的をある程度果たした。実は今回まで、どこに行くにも一緒かと思われる向陽くんの保護者様においてごく一抹ながら心配があったのだが、実際お会いしてやはり全くの杞憂であったことを小さな大きな人々にご報告。

期せずして間髪を入れず再び宮城の沿岸部に行ったのは別の話★☆★

2012年9月13日木曜日

56 「右、左、右」について批判的な考察。

2012年9月13日(木) 初秋晴れ

たぶん全国的に常識とされている、道路横断時などの左右の安全確認方法として、右見て左見てもっかい右見て手を上げて渡る、という方式がある。自動車の教習所で交差点を直進する際などにも教えるらしいです。

僕はこの「右、左、右」について、多分に漏れず小学生のときにしつこく指導されたのだけど、どうも無意味ではないかと疑問に思っていたし、今でも非効率だと思っている。ちょっと気になって全世界に検索をかけてみるとやはりいろいろな意見があったが、私と同じ意見を発しているのは、意外にもごく少数だった。

僕の考えを述べる前に、世間一般の話をまとめておく。なぜ「左、右、左」や「右、左、右、左」ではないのかという問いと、それに対する答えとして、日本の車両が左側通行であるから、横断する際には必ず手前半分は右から車両が来ることになるので、左の後に最後に右を見よ、という意見、あるいは「右、左」で良いところに確認として「右」を付したものと解釈せよという意見などで9割方の議論は収まっている。僕達は1割だ。

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結論から言えば、「右、左、右」ではなくて「左、右」で良さそうだ
自分の意見を否定できる可能性についていろいろ考え込んでは迷ったんだけど、僕の中では当初の一つにまとまった。できるだけ無駄を省いて説明する。

論じる前に前提をいくつか。「確認した方がOKなら次の確認に移る」「全部の確認がOKなら渡る」「確認がOKなら、普通に渡る限りは安全」「でも渡っている最中にも注意は払う」

理由1.行程数の話
迷ったとはいえ、この考えについて直感的に理解できないようでは人間としてヤバいと思うが略説すると、全く同じことを二回やるのが無意味だという子どもらしい批判だ。【確率[右◯→左◯→右◯] < 確率[左◯→右◯]】という説明もできる。右1が◯でも右2が×ならダメじゃないか、結局右1には渡るための決定権は無いんだ、と。もうこれで主要な話は済んだ。

理由2.順序の話
では、そもそもなぜ「右、左」ではなく「左、右」なのか。最初に書いた通り、日本では車両が左側通行だからだ、という通説は最もだけど、一応違う理由も考えてみる。

ここでざっくり距離関係を整理した画像を提示する。左右を見たときにレッドゾーンに車がいなければ渡って良い。段階を踏まないでなかなか思慮に富んだ画像ですよ。



これを見ると、どちらの場合も注意する距離の合計は等しく、大きな差は無い。むしろどちらの場合にも言えることは、左の方が遠くて小さく見える上に実際より遅く見えるため、おそらく判別がやや難しい。そして曖昧なままOKを出すとマズいので【確率[左◯] < 確率[右◯]】となる。ここでもし「右、左」と確認すると、せっかく右が良くても左がダメ、を繰り返す回数、つまり首を振る回数の期待値が大きくなる。「左、右」としておけば、しばらく同じ方を向いておけば済むわけだから無駄が省ける。

以上。もっと凝った理屈を考えたんだけどシンプルにまとまってしまった。道を渡る度に人生得しているという優越感を得られるこんな世の中はややおかしい。

もっとも、視力や確認の能力、道幅や曲がり具合や交通量にもよるのでこれは一概ではなく一般の話、ではなく一握の話。問題を作成するのは文系、問題を解くのは理系。
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考えを披露するなら一度は自分で自分を叩き直してみろやと思った中学生時代をふと思い出したので書いてみました。

あ、あとね、信号あっても無くても横断するときは運転手さんに会釈してます。ぼく免許持ってないけどね★☆★