2011年4月4日月曜日

21 天災の戦死と生きるの記

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警察庁は3日、2010年の自殺者統計を発表した。日本の自殺者の数は、前年から3.5%減った3万1690人だったが、13年連続で3万人を超えた。これは、1日に87人が自殺している計算になる。遺書などから推測した自殺原因は、半数が健康を苦にしたもので、約4500件が家庭の問題が原因となっている。http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2788589/6906889

2009年の自殺者数は2年ぶりの増加で前年比596人増の3万2,845人(男性:641人増の2万3,472人、女性:45人減の9,373人)。12年連続で3万人を超えた。40~60歳代男性の自殺が多く、自殺者全体の40.8%を占めた。職業別では「無職」が57.0%で最も多かった。(時事通信)

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だそうだよ。大地震で、大津波で、放射線被曝で、寒さやストレスやインフルエンザで亡くなる人があまりにも大勢いるのに、それでも、とりあえず今のところは、一年で自殺する人の方が多いということを思うと、勿論この震災を軽んじるつもりは全然無いけど、こんな緊急時でもなければ日本の文化や制度を改正することはよっぽど急務のような気がされていい。まぁそのためにその他もろもろの政策をしてるんだろうけど。

鬱って病気がブームじゃん。「鬱は歴とした病気なので、医師の治療が必要です。」「心が弱い、心の風邪、という認識は危険である。」「しっかりした認識と周囲のケアが重要。」と、言われています。

僕は病院で診察を受けたわけじゃないので説得力や自信に欠けるけど、きっと受診したら鬱症と診断されただろうと思う情態になったことがある。物事を否定的に捉えて、人生の意味とかを考えては明るい答えが出なくて悲しい気持ちになっていた。涙もろく、テレビを見て、子どもを見て、ギャグマンガを見て、景色を見て、朝起きて泣いていた。説得力出てきたかしら。

以下、ぼくの管見が鬱症について分かったようなことを言う。結論は…「鬱は病気ではない。」まぁ病気でもいいけど、そう特別なことではない。だってみんな鬱だし。

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ぼくの悩みは、「善いって何か」だった。子どもの頃からずっと考えていたことだったけど、集中して論理的に考えていると、ついに答えが無いという答えが見つかりそうになったものの、あと最後の一歩で結論できない。結論できないものの、限り無く答えが無いという答えが確からしく、考えれば考えるほど答えから遠ざかる。そんな生活をしていた。

その結果として精神は疲弊して憂鬱が付いてきたものの、別に嫌なことがあったりとか自暴自棄になったりして鬱が鬱を呼ぶわけではなくて、単純な思考の結果として楽しいことが考えられない、休憩が取れなくて疲れる、悲しいことばかり見えるということになるだけ。

思考の性質の一つとして、細かいことまで気にし過ぎる、自分の責任だと思ってしまう、とよく言われるけど、自分もそうだった。というのも、もともと自分は全てのことにつながりがあるという思想を持っているからであって、別にそれ自体は一般的に悪とされる思想ではないし、どちらかと言えば視野が広いと思われていい。ただ、何を見ても特定のことにつなげる思考力があると、ちょっと悪い思想が芽生えたらめちゃくちゃ増大する可能性がある。一を聞いて十を知るタイプ。(気が向いたらリンクする)

他人からすると少々厄介なのが、自分がそうなんだけど、鬱の人は憂鬱を晴らす方法は知ってるけど、それでは問題から逃げて根本的な解決にならないし、気分を晴らす意味も無いと考えるから、自分の病気を治すことには積極的ではないんじゃないかと思う。献身的に現実世界を良くしようと全力で闘ってるんじゃないかと。だからただ無思慮に心が疲れているから明るい人が上位というわけではなく、可哀想な人扱いをして悩みよりも苦しみを共有してみせようとする表面的な人はかえってこの世界のつまらなさを嘆かせる原因になりうる。

鬱の症状の一つに、同じ思想や想像を繰り返してしまう、というのがあるそうで、所行に無常の響きを聴いたり、論理や科学に基づいて自己矛盾に陥ったりするのが典型的。世界に普及している思想や文化の弱点に気づいてしまうと、何を見ても鬱の材料になって残念な結論に至る思想が強化する一方だから大変です。リピートすることで、まず鬱な視点を持って見ることが癖になって、むしろ鬱に自分を見出だして否定的な結論が出ないと不安になる、鬱に安住するくらい鬱ループが板についてくる場合もある。それはそれで気持ちは軽減しているのかも知れないけど負を生産しているだけでかえって問題に思える。

繰り返す一つの原因に、共有できる人がいないことがある。難しく個人的な問題である場合が多いのであまり表現したがらないし、表現しておかないとその先を考えない傾向があるので、いつも難しい鬱な域まで考えては止まる。実際よりさらに難しい問題に感じるし、一人だとモチベーションも落ちる。



ここから話の方向変わる。

ぼくは思うんだけども、どうしても同じ想像を繰り返してしまう、というのは子どもの頃によくありました。何度想像しててやめたいと強く念じても、思い通りに体や物が動かずに変な方に流れていくとか。考えてみれば小学生の鬱だって数年前に問題になっているほど広く普及していることであって、自分も毎日毎日学校に通って特に家でも楽しみも仕事も無くて同じ生活が続いていることにものすごく退屈してよく部屋から夕焼けを眺めていたのをはっきり憶えてる。

打って変わってプロフェッショナルの話。ぼくはプロは鬱の対称だと考えている。対称軸はさしずめ明るさにしとこう。つまり、プロは逆鬱ループを持っていると思う。これはわりと充分な統計のあることだけど、プロはある特定の行動でスイッチが入り、熟練した自分の方法で仕事に取り組む。鬱と違って毎日同じことを繰り返す中に新しさや活力を見つけるのは、そういう明るいループの副産物かしら。

プロは鬱と同じように、ある程度盲目的であると考えている。実際プロフェッショナル本人達も、とにかくやるだけ、目隠しして突っ走っているようなもの、他人は関係無い、自分の好きなこと信じることをやっていただけ、というように言う。つまりプロと鬱とは本質的な部分が似ていると言いたい。

さて、さっき子どもを鬱の例に出したのは、子どもにはプロの要素もまたあると考えているからだ。毎日学校に行く。他にすることがないからといって、ニートとは違ってよく決められたことを勉強するのは、それはまぁ沢山の理由があるけど、一つはその規則的な制度のおかげだと考えてる。時間が決まっていてチャイムが鳴って決まった場所で決まった物で決まった人と勉強する。この大いなる環境が崩壊するとむしろ一つのことすらできなくなりがち。(リンクするかもしないかも)毎晩日記を描いて、部活動に半年間くらい鬼のように取り組んだ時期があるぼくは、完全に自分を練習漬けにして苦しめることでトランス状態になっていた。繰り返すこと、振動、波動には力を増していくちょっと不思議な性質がある。継続は力なるらし。



だから何ということもない。ただ自分が考える鬱構造の例とそれに関連する思想を、ちょっと拾って心のどっかに置いといてほしいと思うだけです。具体的な鬱と解決案についてはまたあらためるかぁ★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。