2011年3月7日月曜日

14 もののありと、おわり。

思いつくことはあるのだけれども忘れることも多々あり。というのも考えることが多過ぎて留めておけないのが大きな理由。うまい考えが見つかるのはえてして普段とは違う状況なのでなおさら。

さて。まずは共有できる内容じゃないと他にとっては意味が無い。
意味があるって言葉の意味は、そこに意、分かりやすく言うと何かを考えて行おうとする意思や生き物らしい感情があって何か趣きや方向性が感じられるということだと思う。そして、意味とは何かを在らしめる性質がある。つまり、人の意がないと、そこにそれは存在していないのと同じだ、という思想をこの言葉によって植えつけられているということに最近気がついた。まぁ言葉が先か思想が先かといえば思想だけども、その言葉を意の無いうちから使っている我々からすれば言葉が先。
でまーもっとわかりやすく言えば、「〜しても意味無い」「〜にはどういう意味が」とか言うとき、まずその何かをすることで何かが存在し得る、生まれるってのはわかれ。次に意識の話だけど、意味があるとか無いとかと言った場合、それは客観的というか絶対的な話ではなくて、ある思想の中で、誰かがそう思うだけで、つまり考える意識が必要でしょ。そんなわけで、共有、共存できないと他にとって意味が無いというのは意味の無いトートロジーな命題、つまり正しいと思って発言してみた。おや、意味が無いことが正しいってこと…なのかな?

つぎ。不変的な内容の方が他と共有しやすい。不変的だと普遍的だから当然。
時間的に大きいものというのは、結果的に量が多いのと同じだと考えてる。というか感覚的にそういう認識に基づいて動いてきたというのが考えるとよくわかる。小さいものでも長い時間あるならそれは長い目で見たときには大きいのと同じ。4次元的な認識を当然の感覚として持っているわけだけども、これはわりと納得されないだろうし、納得されても実践される能を得ないことが多い。

ついでに言えば、他は自分の論理について理解力が乏しい。自分じゃないのでぽっしゅ。

この三つが他人との関わりの悪さを思ったときの反省点。だけど、自分はその時の自分にしかできない個性の方が不変的で意味を感じているのでどこかで日を読むことは続ける。この場の方向性はまだ定まらない★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。