2011年3月27日日曜日

19 HEARTS WILL RISE AGAIN

近況;停電の度にネット不通→頭悪い人が配線変える→直すとキレる('A`)


久しぶりに意識的に睡眠をとる。ここ数年不規則的に眠くていつの間にか寝てた、という形でしか殆ど寝てない。
  起きていたときの記憶が駆け巡ってくっついて不思議で魅惑的な世界が現れる。この日は小川向陽のことを起きてからずーっと考えてた。布団の中で、体を丸めて、今日の虚しさを思い、明日に怯えて、ひたすら助けて助けてと呟いてた。そこで思い出した。 もっと小さい頃もそうだった。 その日の記憶や夢を見るのが宇宙にいる心地で疲れてる心身にはあまりにも安らいで楽しくて幸せで、現実が死ぬほど嫌になる。
  普段ぼくは助けてってあんまり言わないんだけど。もう一つ珍しいことに、助けての次には死にたいと呟くけど、これは昔は言わなかったような気がする。別に悲観してるわけではなくて、これ以上新しい世界を作らないでこの夢を永久に見ていたい、現実の存在感を捨てて幻想の世界に没入したい、と思う。


そもそも自分はこの世界や他人を客観するのが幼児期から好きで、世界を見る自分が一人しかいないことや世界に自分が介入してしまうことが嫌だった。死んでても生きてても何かをじっくり客観することが根本的に好きなんだと思う。楽しいし。
  昔からとても消極的でした。必要が無いことはとことんやりたくなかったからで、それは自分の勝手のせいで人に迷惑をかけたくなかったから。マイナスになることはとことんしない主義を生まれた時に得たみたいだ。どちらが先か、非常に疑り深くもあるのでなかなか行動をしない。期待値がプラスだとしてもマイナス面は必ず見るし、犠牲を出して得を得ることもよしとしなかった。
  でも逆に必要に迫られて自分が動くときは実は嬉しかった。自分の意思を表さないような自然な物腰が深く根付いていて、人と一言も話すことすらできない時期もあったけど、どうしても自分を表現しないといけない時、つまり何者かに強制的にやむを得ずやらされる時、やらないとむしろ責任を問われる時が来ると、それはそれで貴重な機会を喜んでいた。女子やマゾのような受け手の心理はほぼこれで説明できると思っている。
  特に責任を負うことが大きなマイナス要因なのは、自分の世界が膨大で大事に思ってるから、他人のことも同等以上に大事だと思っていて、他人の中の不快は自分にはどうしようもないし、解消したところで存在した事実や影響が消えるわけではないという思想があるのが理由の一つで、逆に自分はわりと痛い目にあっても構わないし、そもそも痛点が違うとこにあるしけっこう深いから他人が痛がるのに比べれば全然痛がらない。

さて関連付けは適当にして。自殺する人も似た思いがあるだろうと思う。楽になりたい、現実を捨てたい、自分が死んでも他人に迷惑はかからない。どこまで考えてるかは知らん。ぼくはとりわけ元々責任も無いし期待されてないし愛してくれてる人も少ない方だからいいものの、愛されてる人は罪悪感があって辛いだろうなぁ。


さて、僕は死を生きることを今のところ人生の目標にしているんだけど、つまりそういう意味での死であって、暗く悲しいものではない。死ぬとどうなるのかはっきりしたことは宗教しか知らないことになってるけど、ぼくはわりと夢見がち。少なくとも苦しいものでは一切無いかなぁと思ってる。それってそれだけで素晴らしい。一切苦しくないなら方向としてはゼロか楽しいかしか無い。死がそんなもの、つまり極楽だとして、死んでるかのような気持ちで、でも実際に生きるっていうのがこの命の目標ということです。
  もう少し物理的なことを言う。要するに死んでるかのように飲まず食わず、眠らず起きずで生活してもいい。これはできないとは全く思ってない。というのは単純に他にできている人がいるからというだけだけど、ぼくにとっては十分な根拠になる。こと食べないことについては、何かをするんじゃなくて何もしなければできるんだからとても簡単。


さて、眠れないままの明け方お布団の中で考えた。こうやって助けて助けてと思ってるうちはきっと子どもでいられる。あまり死にたいと思ってたらそれは子どもじゃないような気もする。闇が好きな僕の本性にとって向陽は眩し過ぎるほんと生きる希望★☆★

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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。