2011年6月22日水曜日

29 あいすこいし二十余の年

とある日の日記。

久々にバイト行ったら、
イベントがあってみんないて、
忙しい寂しい仕事ではなくて、
沢山の好きな人相手に仕事できて、
おいしいお昼ご飯出されて、
アイスおごってもらって、
缶コーヒー飲ませてもらって、

いろいろ特別で楽しかった。

今の行動が半年先にどう影響するか見えてないために、上手に教育できてないのを反省した。経験や情報が圧倒的に少ないとはいえ、もっと考えてもいい。
人の顔はこうも違うかと沢山の顔見ながら考察を深めてた。顔の上の方、目の辺りが膨らんでるといい顔。下方になるほどいまひとつになるような印象を得た。
最近ラ行で始まる名前で整った顔が多いかなって思ってたけど、どうやら学力が上の方に顕著に多いみたいだ。そして新しくヤ行、カ行が興味深い。
とりあえず素早さが無い。何しても素で遅い。速くしよう。一つのことをするのに周りがしっかりしてると中心も格段にしっかりする。もっと容赦無くガバっと見る。
合間に思いついた曲メモってほくほく。最近サマになってきたんだけどこういうの持ってゲーム会社とか行ったら雇ってもらえんのかな?


帰りにナメクジがいっぱいいる所を発見。久々に見た。ちょっとかわいい。
気になる方へ歩みを変えるミニマム散歩はなかなか勇気が要て楽しい。
本屋で立ち読み。自分てけっこういろいろ興味持ってると思った。
背表紙見てるだけでも幅広いこと分かった気になって、ちょっといい気が湧く。
一冊文字をざざっと読んだ。読む度に読むコツが分かるが読むのはめんどい。
名付けの本は一様に響きとか画数とか有名人とかがあるのに意味の項目が皆無で嘲笑した。
ゲームや数学の本にはやたら興味ある。俗に言う運命はそこにあっておかしくない。
二店目で目当ての本を購入。昔は絶対こんなにお金使わなかったのに。



↑ドラマ「名前をなくした女神」の藤本哉汰くん。この後写真は数枚しか出てこないけど、内容も一生懸命だからドラマ見てるみたいで面白いすな。子どもできる前にいろいろ知っておきたい。しかし最近の本はどれも変に商業的で驚いてしまった。哉汰くん使うのはいいけど、誇張表現が多くて何とも。まぁそのくらい当たり前にスルーできるようでないと会話も彩らないだろうからいいんだけど。
ジャニーズとか育児とか小学一年生とかの雑誌もいいけど、同じ質で子役とか子どもの情報誌あれば買うのにな。


家に帰ったら、ピアノがすげー上達してた。最近音楽も一応勉強してるからね。
上達すればするほど、自分の中で新しくなくなって、感動として発表しにくくなるんだけどもし。

毎日同じように流れる時間を特別に感じることは、子どもらしいワクワク。特別にするには、一日の始めに予め何をしたいか考えておいて、一日中何か特別なことがあったらちょっと心に留めておいて、一日の終わりに思い出せばいい。日記はそのために役立つ。思い出すという作業は面白いし、やるのとやらないのとでは心の広さが天と地の差。わかってるけどめんどくさい★☆★

2011年6月17日金曜日

28 GanBaraged To Do Me Ka.

こんちあ。気分がいい。

ぼくがDTMの遊べる具合についてごく簡単に書くだけの回。
天てれのMTKをピアノ用にアレンジしてたつもりがいつの間にか楽器増えてニコニコにうpするまでになったのは10日くらい前の話。あるある→ sm14666000「カラフル!」

DTMとはDeskTopMusicの略。細かい定義は知らないけど、パソコンで作る音楽の総称
MTKとはMusicTerebiKunの略。てれび戦士がプロに作ってもらった曲を歌うコーナー。

PC買って、Macなんだけど、GarageBandっていうDTMソフトが付いてきて、最初はヘルプ読んでもよく分かんなかったし検索してもつまらんおもちゃとしか書いてなかったんだけど、ある日打ち込みができることに気がついた。つまり楽譜書いて演奏させられるってこと。そして最初の8秒の曲を作ってから、一年くらい経った。

もともとピアノは弾いてたものの、楽譜見て曲をしっかり弾くわけでもなく、音楽理論を勉強するわけでもなく、特別思い描く音楽があるわけでもなく、でも新しいものを求めて、しかも楽しく弾いてた。ようやく楽譜に保存できる機械を得た。打ち込んでみると、意外でもないが、ちょいとしたテクニックでけっこうそれっぽく聞こえるもので、音色や面白いエフェクトがいっぱいあるからあれこれ作ってみた。

明らかに音に親しくなった。音が眼に見えて触れるような感覚がある。普段自分で楽器を演奏するときに例えば跳ねるような感じでとか僅かに後らせてとか装飾音は短くとか、明るくとか柔らかくとか悲しくとか、そういう楽譜には書ききれないことも全部自分で書かないと表現できないから、どういう仕組みでどういう風に聞こえているのかの勉強になる。何が大事で何が大して意味無いかわかってくる。

DTMは、楽譜を沢山の要素で詳細に書けば書くほど豊かに演奏してくれる。書いたら何でも演奏してくれる。逆に普通の楽譜を書いても全然生命感のある演奏はしてくれない。ユーザーは作曲家と指揮者を兼ねる。普通の音楽家以上に編曲や音響もできる範囲で自由に考えていい。ドラムと篳篥と海水浴の音に合唱付けてフライパンで炒めてもいい。こんなに面白いもの子どもに与えたら…根気は要るけどすぐ慣れるだろう。GarageBandには紙と鉛筆に劣らない自由さがある。

音楽のことになると急に難しい言葉使いたがったり手厳しかったりする人っていっぱいいるじゃん。拍がズレてるとか音質は何Kbpsがいいとかどこの何万のヘッドフォンじゃないとだめだとか。DTMでも楽器より高い楽器の音が売ってるし、GarageBandなんて2000円くらいらしくてそれこそおもちゃみたいな扱いされることが多いけど、正直自分には音について細かい違いが分からん。少なくともまだこのソフトで充分だし、高いソフト使ってどうでもいい音楽しか聞かせてくれない人が多過ぎて良い物はまだまだ買う気がしない。音色かなり変えられるし、無料でもいっぱい音あるし。

だけどまあ、音楽に詳しい雰囲気出してる人いっぱいいるし、演奏すんのうまい人もいっぱいいるから、やっぱり自分はこの程度で満足するあたり耳が貧弱なのかなと思ったりするし、しつこいけど自分の音楽に理論とか無いから、恥ずかしくてドドンと言えないではいるさ。作ろうと思ってそんな作れないしね。何となく元気なときにぽぅんと書ける。今ならできる!って時は勉強でも運動でもあるしょ。

まぁ基本的に何に投稿するでもなくひとりでに作ってるから何とも言えんが。思いついたので書いといた★☆★

2011年6月15日水曜日

27 Flow PackAge

積極性と消極性の意味

「積極的」ってどういうことかというと、自分はいつもイメージする形がある。つまり、今の現実の自分のイメージがあって、理想や空想がそれよりも大きくあって、その差、足りてない空白の部分を埋める、積むような、あるいはもう積まれているかのような物事の見方や行動、これが積極的な態度だろうと思う。何も無いところにも自分を広げていく性向が積極性なんだと。

逆に「消極的」と呼ばれるのはどういう形かといえば、現実の自分を過小評価してでも、それをはみ出さないように、その範囲内で収まる物事を見る、という態度だと思う。自分よりも小さいものに取り組むから、自分を幾分持て余す。実際には、積極的でも消極的でもないバランスの取れてるものの見方も、消極的と呼ばれることが多い。

自分自身の見方

いわゆる消極的な人は、自分や現実世界を正確に見ること、完全な正しい世界に固執して、それを超えればどんな取り返しの付かない危険があってもおかしくないと考える保守的な見方に基づいてるように思う。特に子どもや世間知らずな大人については、現実社会の多数決の正義ではなく、数学のような形而上の完全な世界があって、その中に絶対の正義があると信じきっている場合がとても多い。慎重派で、引き篭もりがちだけど、必ずしも成長を怠ける場合ばかりでもないし、自分の範囲内で、小さいけれども起伏に富んで完成度の高い仕事をすることが多い。

積極的な人たちは、自分でない部分に自分を見る想像力はあるが、そこに踏み込んで実行してしまう分、行動しない人たちよりも現実的に現実を見る。もしかすると単に自分を過大評価してるだけのことかも知れないが、とにかく危険を冒してでも外に向かって多くの経験を自分でする過程で、実際の自分や世界の形を知る能力は、正しい自分を見ることに専念する消極的な人たちに劣らず強そうに思える。

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まぁそんな思想を持ってて。
今日言いたいのは、準備できるまでやらない、はみ出たことはしない、っていう態度をやめようと最近思いました、という話。

行動してから考えるなど愚の骨頂かと思っていた。だってちょっと考えればわかっただろうに前もって準備しないから取り返しの付かないぐらいの問題が信じられないくらいいっぱい起こってるじゃん。それは悪いことだと思うし、考えられる危機に対する準備は大きいものは特にできる限りしておくべき。

でも別に始めた後で間に合うものはどんどん後回しにして始めちゃえば良いと思う。というのも、実際に物事を開始すると、俄然勢いややる気が出るもの。急に現実的に考えが進んで、不足しているものや拙さを実感したり、体を整えたり新しいアンテナを張りだしたりすることが多い。その気に乗せて、欲しいものはさっさと調達すればいい。その気にならなくても、始めてしまって責任や焦りが出てくれば頑張ることはできる。
   よくある話ではあるけど、実際にやってみるとなかなか考えつかなかったようなことがある場合が多い。そこで、準備されたものとの不具合が出るよりも、その新鮮な場で初めて必要なものを素直に感じ取った方が好い結果につながりやすい。まぁそのまま忙しさに流されて、特に平常時に必要の無いものは放置される恐れもあるけど。

これもよくある話だけども、対して精力的でもない人で一つのこともうまくできない人がいる一方で、忙しい人で全部うまくこなす人がいる。というのも、大雑把に言うと、いっぱいやる方が一つだけやるよりもうまくできるからだと思うんよ。自転車ゆっくりはこげないようなもん。とにかく回し始めてしまったらいろいろ取り込む力が出てくる。
   簡単な話、竹馬に乗れる人と乗れない人で、どちらが逆上がりうまいかっつったら因果は分からなくてもとりあえず竹馬乗れた方が有利かなと思うやん。フィギュアスケートやってるハタチと自宅警備やってるハタチとでどっちが字うまいかっつったらまぁ平均してみたら前者だと思うじゃん。何でもできとる方が、他の全てのことに少なくとも悪い訳無い、と信じてると何でもとっても楽しくなる。まぁ、自分でも信じられない部分もあるので強くは勧められないけど。


そんなわけでとりあえず始めてみよう、というのが今の考え。

準備が不十分なばかりに途中で形式が変わってしまうのが芸術的でなくてどうしても気にしてしまっていたけど、今は、どうせ永久に残るものでもないし、どうせ数年後にはもっと進んだ技術に簡単に飲まれるし、やっていく中で変化していくのを見るのも面白いと思えるようになってずいぶん楽になった。昔のファイナルファンタジーとかテレビドラマとか音楽とか、低レベルですごく良い作品だし、背景に感じる時代も作品の味の一部になる。じじくせえ。

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でここで、実装する力についてヒントになりそうな話がある。子どもです。

子どもって、100%理解して読もう、と思うと、ほんとに100%理解して読むらしい。
50m8秒台で走ると思うと、ほんとに8秒99で走る。窮地になると跳び箱も8段飛べる。これは自分の話。
しっかり勝つイメージすると、勝つ。もちろん能力に限界はあるけどさ。

子どもは、経験は少ないけど、あるいはむしろそのせいで、想像力豊か。
それだけじゃなくて、自分の想像に、現実の自分を合わせる力が半端無い。

これは単に若さゆえの能力ではなくて、ある世界観が前提としてあるのかなぁと思うんだ。子どもは、それが良いとか悪いとか、どれだけの可能性とかでものを見てない。それがそこにあるのをただしっかり自分の世界の一部として感じて、納得するまで同化するだけ。子どもにとって、世界は自分とは別の外の物ではなくて、すべて自分の感覚なんだから自分自身に他ならない。どれだけ変なものであれ、感情であれ妄想であれ、自分がその場所にその物を感覚しているという存在感ほど正しいものは無い。それを、何かの規格で思慮するのではなくて、ただ誤る術無く完全に感じることで自分を重ね合わせる。そんな理解の仕方をしているように思える。

だから、無理とか心のどこにも思いつかず、自分を理想に合わせる。これ即ち、子どもの「素直さ」と考えていいかも知らね。
まぁ、心と頭がそうなっても、実際に体がついていくのは若さゆえかも知らね★☆★

2011年6月1日水曜日

26 May myself forward.

下書きが溜まって5月は何も書いてなかったw まだ方向性が定まらないから臆病なんすね。
関東ではすっかり日が長くなったこのごろです。落ち込んだりもしたけれど私は元気なう。

5月をちょこちょこと反芻する。

◎3月に鬱と闘い、4月に立派な子どもになるという夢を研いで以来、行動に迷いが大きく減った。
◎表現すること、世界に踏み込んで変えることに引き続き興味が大きく、日常生活の改善が続く。
◯精神と肉体の関係を以前より強く信じて、笑顔の練習が続く。肉がついたと言われるまで豊満になれた。
◯肉体同士の関係にも理解が強くなり、肩、骨盤、手脚、視力、声、顔、髪まで感覚がつながった。
◎物事を只管よくみる。音や自分の精神や世界の秩序や他人の哲学を、立体を見るかのように感じるようになる。
×文章を書かないので頭が理性的にならない。論理がうまくいかない。

子ども好きな人つながりで、初めてのオフ会した。不具合により少人数で、話は真摯で幅広く、いろんな新しい人の世界を見たい思いが強まってた自分には非常に都合の好い心持ちと実績を持つ人達だった。
彼らに会った翌日には顔見知りの子どもに話しかけて別件で会う用を作り、半月ほど後には顔も知らない子どもと一緒に遊ぶ経験を初めて得、子どもと触れ合うために必要なことを山ほど思い知って、勉学や運動、相変わらず表現の向上にもやる気が上がる。

就活の時期、ビジネスやITに明け暮れる友人、惜しまれつつ収監される生命の扉。成人を越えてから漸く、「お金って必要ですかねぇ」という子どもの問いに、比較的素直な答えを出せて、感動を曲芸にせむとす。

世界を広げたいから、知らない人にも臆せず楽しく話せるようになりたい。そう思って笑顔や音楽や言語や社会性についても考えてきた。考えるだけで行動していなかった人は、行動してからの成長は速くても、しかし幼い頃からの土台の無さが表れたか、失態が晒されることも多く、綿密でワイルドな実力をさらに求める。


どうせうまいこと描けないなら、幾分日記的に描いてみてもいい。スランプのときは、とにかく描いて描いて描きまくる、それでも描けなかったら暫く描くのをやめてみる★☆★