ここ数年、平和を弊害に思う風潮が高まっている。私個人の中で。教育と絡んで雑記をひとつ。
自分の育ちが悪いと思ってる。でも、とりわけ貧乏だったわけでも酷い虐待を受けたわけでも教育を受けられなかったわけでもない。じゃあ甘やかされて育ったから考え方が贅沢なのだ、と言って聞こうともしない大人達の世の中で育てられたから悪いと思ってる。
比較的平和な世の中で、比較的恵まれた生活をしている人達の中で、著しい学力低下、失業、鬱病、自殺が蔓延している。それぞれの割合を考えれば日本の若者の8割近くが少なくともいずれか一つに当てはまるのではないかと思ってしまう。
比較的恵まれているというような実感の薄い知識はプラスにならない。大切なのは個人が実際に感じる落差だ。動いていないものを人間の眼は見ることができないのと同じように、平らで変化の無い世の中で自分自身すら動かずにいれば、何も感知することができないし、感情も持てない。人肌のお風呂には感動しない。下を見るのは優越のためではなく、上に引き上げるため。
逆にいわゆる悪い環境でも、伸びていく人はいる。もう一度言うけど大切なのはその成長した分であって、変化が無いことにはいわゆる良い環境も良いと感じられない。他と比較することが意味が無いと言ってるんじゃなくて、身近で実感を伴うようなものでなければ健康な精神を保たせるには足りないということで、他との比較自体は自身を認識するためにはとても有効なのは周知の通りだ。
もう一つ加えよう。どれほど劣悪な環境を考えても、何者かと意思の疎通を図ることはほぼできる。その内容は、突き詰めれば物質的な環境とは無関係かそれに近いものになると思う。また、人生経験が豊富な人ほど思想や知恵を得るきっかけこそ多いものの、可能性が大きいだけに過ぎないし、思想や知恵というものは想像力の上に成り立っているに過ぎない。物質的な条件は無関係に近いと考えてる。
平和なこの環境において、
僕は自分の育ちが悪いと思ってる。生まれたところからどれだけ伸びたのか、そもそもどれだけの可能性があったのか、他と比べて一体どのくらいのレベルなのか、と考えたときに、少し考えるだけでも深く考えこんでみても残念としか言えない。
僕は自分の育ちが悪いと思ってる。生まれたところからどれだけ伸びたのか、そもそもどれだけの可能性があったのか、他と比べて一体どのくらいのレベルなのか、と考えたときに、少し考えるだけでも深く考えこんでみても残念としか言えない。
この年になると、教育についていろいろ考える。思考や実験の際には、余計な条件を捨象するのが学問の基本だ。人間という生物の核心的存在で、純粋な反応を大量に観測できるものとなると、子どもだ。しかもこれは万人が自分自身で経験したことまである。僕が子どもを愛する理由は大体こういう場所にあるんだけど少し別の話。
考えを巡らせる。自分が子どもの時はどうだったか…。自分が子どもの時におかしいと思っていたことは、今考えてみるとどういうことだったんだろうか。あぁあの時お母さんが言ったことが全部正しかったと思う日が来る、アンタも大人になれば分かるから憶えておけと言われて、今大人になりつつある。大人という資格を武器に、責任を持ってどう分かったと言えるのか。冒頭の通りだ。
主な話は終わり。蛇足かも知れないが、僕は、幼少期から親の教育方法に対して、あるいは周囲の人間の言動に対して、不可解だと思っていた。しかし彼らと違って、あくまで意見をぶつけあうだけで、否定は一切しなかった。今も基本的な考え方は変わっていないし、世間的にはそれが大人だと認められることになっている。
繰り返しになるけど、僕は幼少期から親の教育が不可解だった。大人になるまで判断を保留していた。今は悪だったと思っている。人によってはタブーな物言いだろうが、自分で自分が可哀想だ。可哀想な人種を差別して絶滅するべく突き動かされた偉人は数知れない。
自分より他人を殺したい20代前半の若者の愚痴でした。頭の悪い人にこそ理解できなかったら意味ないもんね★☆★
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( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。