2012年7月20日金曜日

54 怒ることの利点

2012年7月19日(木) 爽夜

ブログの態勢、体裁について自分の気に入るようにしていこうと思った矢先に大きな仕事を患って、音楽も作れない、テレビも見られない日々が続いたけど、まぁいろいろ勉強できてよかった面もある。理不尽な相手との付き合い方、仕事の流儀、効果的な表現方法、その他専門的な知識。
以下日常的なテーマで論説。

●結論●
子どもの頃からずーーっと悩んでいたテーマの一つ。怒るのは表現として効率的かつ素直で良いことに思えてきたから頑張って中学生以来でもう一回生活に取り入れてみようかなって話。怒られる側にとっては面白くない話かも知らん。

●主題、動機●
最近、あの若い頃の怒ってばかりいた日々を思い出せた。
いつも言う通り、この歳になると怒ることが難しくなってくる。人がどういう思想を持っていて、どういう思考を経て、どういう状況で行動して、どういう結果が出たか、理解できていると、それが自分にとって不利益であっても、どうしてもただ静かな事象にしか思えない。経緯や背景を理解できていない場合でも、責任が自分にある、もしくはどこにも無いという思想を持っていれば、簡単に言えば善悪を存在しないものと考えれば、他人が理不尽であることへの怒りは起こらない。
と、言ってみたものの、たぶん不自然なことなんだろう。怒ることが嫌いだから、怒るような場面について自分が長年考えて体得したのがこの思想であって、この思想を常備しているせいで笑いや涙まで抑えられるというようなことは少ない。自然に使い分けてるっぽい。あくまで自然かつ無意識に。感情のことは何言ったって結局畢竟は分かんないからね。
なんだけど、最近イライラしていたのはなぜだろうなぜかしら。そもそも怒ることってホントに避けるべきことなのかしら。てな感じで静かな自分に批判的に考えてみます。

●1部●
最近イライラするようになったのはなぜか周辺の思想を書く。まず大きな前提として、責任の在りかを思い定める、他人を動かして世界を変える、自分の欲望や感情を持つ、諦めない、と生き方が変わってきたことに加えて以下詳細。

◆簡単に言えば、一つのパフォーマンスになるかも知れない、ということだ。感情表現も一つの論理というか論法というか表現技法と考えて、効果的に使える方法を考えてみようかと。何かを表現する際に、こちらの主観を押し出して相手に寄り添ってもらうタイプの表現も充分役に立つし、そろそろ使っていけそうだと最近漸く思った。むしろ論理的な説明では何一つ分かってくれない人の方が多い。
メロディックで自分に酔っているような音楽も、声も動きも大きくて擬音語ばかりの自慢話も、笑顔と涙を振り撒く人間ドラマも、賛同できれば文句無しで面白いけど、理解されなければ無視されて、反対されれば嫌われるリスクがある。ただ、客観性しか求めていない表現では辿り着き難い、膨大なニュアンスを表現できてオリジナリティも出せる。誰しも主観からスタートするんだから、客観性を求めれば不自然に冷たさに向かうしかないものね。

その嫌われるリスクについて言えば、特に怒りは感情表現の中でも他人を不快にする確率が非常に高い。怒りは、感情表現として自分に寄り添わせることよりも、むしろ反発心を起こしかねないことが特徴だろう。いったん不快にしてしまったら相手は自己防衛を始めるし、こちらも後には引けない。説明、説得できるだけの表現力が無いと勝てない。敗北すればほら見ろと言われて今後の影響力まで失う。ましてや普段から怒ってて嫌われるキャラなら生活整いそうだな、と。
闘う際には、論理が通用しないお子様が相手なら学校の先生のように正論を振りかざして悔しい感情を与えてHPを0にすればいい。経験で覚えるタイプなんだから調度良い。対して相手がそれなりの自論で返してきた場合が大人の闘い。意外にも、頭にくるとかえって冷静に強力な論理を武器に取るタイプの人もいる。というのは自分のことなんだが…。相手を負かさないまでも、自分が勝てる論理で了承させるのが今のところの自分の闘い方。つまり狭い理解では勇まない方が良い。
僕においてはそろそろ世の中の仕組み理解6級と鈍感準2級くらいは持ってるつもりになれてきたから、間違っているかも、他人には不快だ、世の害悪ではないか、という恐れが少なくなってきた。最低でもその分の傲慢さをエサにバトルに持ち込める。
とまあ危険な態度ではあるけど、相手を不快にして戦闘に持ち込む利益は一つ思いつく。その方がスルーされにくい場合があるということだ。ヘラヘラ真面目なこと言ってたら98%ヘラヘラ聞き流されるところを、敢えて噛み付くことで反応が得られる場合がある。面倒だけどね。

●2部●
はい次。そもそもなぜ怒ることを避けていたのか。を否定してみる勢い。
思いついた理由をざっくり分ける。1.短気な人と思われたくないから 2.他人を不快にしたくないから 3.話せば分かるんだからわざわざそんな危険を冒す意味も無いと考えていた

3の反論。くどいけど冷淡に正確に話したって伝わらない。伝わる人でも、強く言った方が圧倒的に効力がある場合がある。僕は日常の中で穏やかに注意された場合、間違いを繰り返さないためにわざわざ自分で痛ましい感情をつくって自戒すると同時に経験として記憶に残すという作業をしてるくらいだ。最初からキツく言ってくれたら済む話だよなぁと常々思っていた。まぁ穏便に済むことは良いのだけど、少々効率は落ちるかなぁ、と。
 また、怒っている、不快であるという感情そのものを分からせることが大事であることも多い。奥床しくニコニコしてたら本気なのかどうなのか探る手間がかかるし、他人を不快にしたくないと思う人なら怒らせるようなことは避ける。
1,2の反論。これとても重要かと思う。この歳になると、分別のある人がただ短気でイライラしてるワケ無いのなんかみんな分かるわけだ。ニコニコして過ごせるのに、敢えて怒ってるように言っているのだな、わざわざ強く叱ってくれているのだな、と理解できる。それをまた怒る側も理解してるから、嫌われたり誤解されたりする心配は無い。…仮にそのへんが分かってない人がいたとしたら、その人こそがニコニコ言っても分からない奴だ。嫌われてでも正論を突き刺した方がお互い良いのではないかしら。




まぁぼく学生ですが。変にキレる人も穏やかにスルーする人も嫌い。
怒ることと叱ることは区別してあえて怒る話をしてるのよヽ(・д・)ノ★☆★

0 件のコメント:

コメントを投稿

( ^^) _旦~~ おきがるにどうぞ。